2015年10月 2日 (金)

おじいちゃん医師

「どこか大変なところはない?」
医師からこんなことを聞かれることは珍しい。大方の医師は患者の訴えをパソコンを相手にしながら聞き、検査データを頼りに病状を説明するだけである。このおじいちゃん医師は主訴以外に患者の生活に関心を向けたのだった。

「浮腫がひどくて毎日の動作が大変です」
こう答えると
「点滴をして行きなさい。10分で終わるから」と背中の曲がった年寄りの医師は言った。
「利尿剤を使っているんですが」と私。
「利尿剤では治らないよ」
そう言われるままに私は点滴を受けることにした。長年浮腫では悩まされてきたし、利尿剤でも完治しない。また、浮腫の原因を考えれば、歩行ができないこと、肝臓障害があることその他特定できない原因もあるだろう。そんな諸条件を聞かずして、点滴を勧める医師に多少の不信感を感じないわけではないが、今、他に為す術がないのだから、そして点滴をしたことで悪影響があるわけでもないだろう、そう判断したのだ。
点滴液は濃い黄色をして小さな袋に入って例の移動式の支柱に吊るされて落ち始めた。
「先生、これはなんという点滴液ですか?」
「アリナミン、知ってるだろう。アリナミンがいっぱい入っているから体がシャンとするよ。腎臓がよくなるから浮腫も取れるんだよ」
医師は私の質問とは関係ないことを言いながら他の患者の処置に走った。

この小さな病院に行くきっかけは踵にかすかに傷ができたからだった。もう2か月にもなるのだが悪化すわけでもなく消えるわけでもなかった。玄関を入ると直ぐに待合室といった狭さで、その上車いす用のスロープがあるのだが、その先端が角になっていて電動車いすがつっかえて上手く上れない。看護師さんが2,3人で前輪を持ち上げる始末である。
だが、どこか親しみのある病院である。診療カードを作るでもなく、長い問診をするのでもない。老医師の長年の経験の勘とも言うべき判断で治療しているように見える。人の触れ合いがある感じがするのである。

今日は入浴介助のある日。先日風呂はまだやめておきなさいと言われて抜いてしまったので今日はぜひ入りたい。通院は中止。

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2012年2月 9日 (木)

命を終える路

「大往生したけりゃ医療とかかわるな 自然死のすすめ」(中村仁一著 幻冬舎)という本がある。しっかり自分の判断を持って読む必要がる本だが、納得できる面も少なくない。
人は死ぬ存在である、体が本来備えている生きる力がなくなったら死ぬことが自然の理なのだが、現代は人工的に、半ば強制的に医療と称して死ねない状況を造り出している、こんなことを書きたいらしい。
だからガンになったらそれに身を任せて次の世界にいざなってもらったらいいというのだ。「死ぬのは『がん』に限る。ただし、治療はせずに。」と帯に大書されているのはそうした趣旨であろう。
 
今朝の新聞の広告欄には「がんに負けない、あきらめないコツ」(鎌田實著 朝日新聞出版)の宣伝が載っている。これも読みたくなる本ではあろう。
 
そろそろ命を終える路を考えないといけない時を迎えている。

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2010年9月24日 (金)

自然の中の人間

iPS細胞を創りだした山中教授はノーベル賞候補の第一人者だという。それほどまでにこの研究は注目されているのだ。
この細胞は人間の器官の元になるものだから例えば脊椎を損傷されたねずみにそれを与えると脊椎が新たに誕生し走ることが出来る。人間においても同様な効果が期待され、難病の治療に画期的な結果をもたらすだろうというわけである。日々の困難が解決されて重荷から解放される人がでることはいいことだ。
  
だが、科学者の興味関心はこのような事態になるとその枠を広げ、動物の体を借りて人間の臓器を作り出すことさえその対象に捉えてしまう。
臓器不足とか今患者が抱えている苦しみを解決するという「恩恵」に与れるのだから応用の是非は後回しにして研究は推進するべきであるとジャーナリストは言う。
 
そう簡単な問題であろうか。人間の体は自然の摂理の中で創造されたものだ。何処へ向かって行っているのかも定かではない。その中で、現在理解されたことは海の真砂ぐらいのものだろう。その砂を用いて人間を作り替えることは慎重にも慎重でなくてはならない。造り主の意図を犯して、人が造り主になることは許されないだろう。

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2010年9月 1日 (水)

診察を終えて

いつもの道を通って通院。診察を終えて帰る道、妻を見舞って悲しみを抱きながら運転していた二年前を思い出していた。姉が脇に乗って、子どもたちが成長し、何も心配なくなった時でよかったと思いなよと慰められながらの帰宅だった。
 
そういえば、妻の入院中は診察そのものが緊張と重い判断の連続だった。医師と会うごとに新事実を知らされ、治療手段を選択することを迫られたものだ。
 
今日の診察はそんなことはない。「肝臓は落ち着いていますね」と、それだけを聞く平穏な時。
 
妻よ、君の人生の終焉は試練の連続だったね。

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2009年12月 4日 (金)

出さなかった手紙

夜は感情が素直に出る。手紙も夜書いたものは素直である。それだけに翌日になって読み返すと投函することをためらう。
癌で入院しているTZさんに書いた手紙もその一つだった。
 
「TZさん、その後如何ですか。
今日は三ヶ月ぶりで祈りの会に出ました。そして先生とSYさんと三人でTZさんが癒されるようにと祈りました。付き添われている奥様を支えてくださいと祈りました。
 友病みて容態知れず寒雀
先日私が作った句です。貴兄がどうなっているのだろうと心から心配しています。
妻の病気に長い間関わってきた私は治療について、病む人の生活についてもそれなりにいろいろ考え、また知っていることもあります。
こんな私でよかったらどうぞ悩んでおられることや治療のことの知識を使ってください。
今思うと、病を治すことが妻の生活を取り戻すことだと疑わず、そのことに夢中でした。「治療」が身心を弱めていたという気もします。(これは今だから言えることで、最善のことをしたという思いには変わりありません)
全人的な対応は医師にとっても難しいことかもしれませんが、TZさんがあのやさしいTZさんのままで治療がすすむことを祈っています。
勇気をもって進んでください。」
  
私は何でも近くの人に打ち明ける性質であるから「詳しいことは話すな」と奥さんに命じているTZさんの様子が気になって仕方ないのだが、人によってはこうして秘めていることが自分に素直な人もいるのだろうと思うと、手紙は出さないほうがいいのか知らんと判断した次第である。

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2009年11月12日 (木)

溜飲を下げる

 先日の朝日新聞「朝日広告特集」欄に「『がんと仲良く暮らす』ってどういうこと?」と題して二人の医師の対談が載っていた。その一人、癌究有明病院緩和ケア科部長向山雄人氏がこんなことを言っていた。

 「がんによって起こる障害には器質的障害と機能的障害の二つがあります。(その一つの)機能的障害とは、がん細胞・組織から分泌される物質などにより、体内で慢性炎症、脳神経・内分泌・代謝・免疫異常を起こし、体が衰弱するだけでなく、精神的にも消耗してしまう状態をいいます。」

 「体重の減少、主に全身の筋肉の萎しゅくが起こると、患者さんの体力が奪われ続けるとともに、生活の質(QOL)を維持することが難しくなります。同時に、抗がん剤などを分解する酵素の働きが弱くなって、抗がん剤の副作用が強く出たり、治療を続けられなくなったりすることもあります。」

 私は妻の闘病の日々を思い出し、この話はそっくり妻の様子を言いえていると納得した。妻には機能障害が明らかに起こっていたのだ。食欲がなくなり、周囲のものとの交流が乏しくなり、イレッサも利かず、体がどんどん弱っていった妻。周囲のものの懸命な励ましも、もしかしたら妻には届かず、かえって迷惑だったかもしれないとも今に思う。妻は私が理解していない別の世界を生きて、そして旅立っていったのだろう。

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2009年6月 2日 (火)

麻酔からの帰還

「○○さん、手術終わりましたよ。目を開けてください。」「手術、終わりました。分かりますか。」右の耳からやさしい女性の声が聞こえる。
手術室に入って、丸いライトが密集する照明の下に位置して寝かされたのは覚えているがその後のことは空白であった。どれほどの時が経過したか分からない。
声は濃霧の中、そこだけが明るく開けているところから発せられていた。
「目を開けてみてください。」
私はなんとか声の主に応えようとするのだが、どうしたら目を開けられるのか分からなかった。声も出せなかった。
霧の世界はやがて鍾乳洞のなかにある石筍が幾何学模様になって床から立ち上がっている広大な部屋に変わっていった。そしてまた他の空間にも。残念ながらその模様は覚えていない。
やがて声が出て、手足が運動感覚と取り戻したのは何分後だったろうか。
麻酔からの帰還はこんな具合であった。
後に麻酔科の医師に聞くと、最初に機能を取り戻すのが聴覚なのだそうだ。
  
全身麻酔は他にもいたずらをした。ベッドに帰って眠る時、目を閉じるとたちまちに今置かれている世界とは異なる光景が現れた。幻視の世界と言ってもいい。その中の私がなにやらこちらにいる私に手渡そうとしていた。それは目を開けると中断するのだが。
膀胱が正常に機能しないことも麻酔の影響らしかった。
術前にいただいた麻酔に関する説明書にはこんなことは書かれていないことなのだが。

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2009年5月31日 (日)

専門士としての看護師

入院するとまず看護師の聞き取り作業がある。患者についての情報を得、看護に万全を期すためだろう。
今回も同様だった。その席で私は以前入院した際、不安が襲ったとき看護師に少しでも傍らにいて欲しかったが看護師は眠りを誘う注射で処理してしまったと告げた。
聞き取りにかかわった彼女は2、30代であろう。このN・Mさんが私の担当看護師になった。思うに、彼女は専門家として、過不足なく看護をしてくれたのだ。
1つ例を挙げる。手術が終わった夜、尿が出にくくなった。膀胱を漏れてくる尿が、染み出るように常時排出されるといった様子だった。尿瓶を当てても直ぐにまた尿意を感じる有様だった。
気が付くと腹部が大きく腫れていた。看護師は導尿しましょうかと言った。もう恥ずかさなどを問題にする場合ではなかった。
彼女はカテーテルを持ってきて、挿入した。その際予期せぬことが起こったのだが、彼女は無表情に当然のごとく処理を進めた。多少の痛みを感じたがカテーテルは体内にもぐりこんでいったらしかった。「おしっこが出てきました。いっぱい出ています」。平静に彼女は言った。
しばらくして見せてくれた尿瓶には入り口までも尿が一杯になっていた。私の衣類を整えた看護師は尿瓶を持って「何かあったらいつでも呼んでください」と言ってカーテンを閉めて去っていった。

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2009年5月26日 (火)

入院という不安定さ

午後入院する。そけいヘルニアの手術のためだ。
子供も忙しい。昨日はヒカちゃんの歯科の治療で日高市の方まで出かけた。今日また私のために午後休暇をとる。
妻がいないので細かなことまで頼むわけにはいかないからあれこれ自分で整えた。それでも何か忘れていないかと心配である。
二泊三日の入院なのだがやはり心は不安定な状態になっている。

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2009年2月24日 (火)

受精卵取り違え事件

香川県立中央病院の医師が体外受精をした受精卵を取り違え、ご本人のものでない受精卵を移植してしまい、妊娠10週目になって人工中絶したという記事が最近新聞に何度も載っている。
昨日の朝日には取り違えの過程がまた報道されていた。それを読んでいるうちに、人間の命の誕生という厳粛なことにおいて、現代ではその畏れの本質が忘れられ、メカニズムの有効性に主眼が置かれているような気がしてきた。
記事の中から気づいた言葉を抜き出してみると、命の萌芽である受精卵は「シャーレ」の中で、複数個作られるらしいのだが、体内に帰されるもの以外は「廃棄」されるという。そは「作業台」で行われる。不幸なことが起こった原因は他の方の「廃棄」する受精卵を「作業台」に「置き忘れ」たまま、この度中絶した方の受精卵を並べたことにある、とのことだった。
いろいろな理由で妊娠が自然な形ではできない方にとっては体外受精という方法も必要なのかもしれないが、今度の医師のように同一作業を繰り返していると、与えられる命に対する畏敬の念が消えうせ、人間の誕生は医療のプロセスの問題となってしまうのではないかと恐れるのである。

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