2017年1月15日 (日)

雪の朝

 礼拝出席のためにマナーモードに設定した携帯電話が胸のポケットで震えた。牧師先生からの電話だ。「今朝は危険ですからお休みにしましょう」。
 週ごとに家まで迎えに来てくださり、また送ってくださる牧師先生。自分で運転ができなくなったからここ数年、黙々と私の礼拝主席を守ってくださった人である。
 カーテンを開けると確かに雪景色が広がっていた。足が浮腫むようになってから衣服の着脱には多くの時間を要するのだが、今朝は外出用のズボンとシャツをようやく身につけたこのままで過ごすことにしよう。

 今週は我が家で地区集会が持たれる。ヨシュア記を学び、祈る集会である。その時を楽しみに待つことにしよう。

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2017年1月 8日 (日)

新年の祈り

恵みに富みたもう主なる神様、あなたの聖名を賛美いたします。

新しい年の初め、こうしてあなたにある兄弟姉妹の皆様と共にあなたの家である教会の礼拝に集わせてくださり心から感謝致します。

 

あなたの御心によって私たちはここに教会を建て、あなたを中心とした共同の場所を形作ってまいりました。どうぞ、これからもあなたに生かされて御心を広くこの世に伝える業をなさしめてください。

特に今年は長く奉仕の業を務めてこられた牧者を送り、新しい牧者を迎える年となりました。どうぞ、ここ本庄教会で喜びの内に奉仕をしてくださる先生をあなたがお与えくださいますようにと心から祈ります。

かつて旧約の祈りにおいて「あなたはわたしの主。あなたのほかにはわたしの幸いはありません」と歌われたように私たちもあなただけを崇め、賛美し、より頼んで教会生活を続けて行くことが出来ますように。

 

神様、今日もここに集えない多くの兄弟姉妹がおられます。その事情はさまざまですが、どうぞ、御心でしたら再び共に礼拝に与ることが許されますように。

集えない今朝はその方々がその場所においてあなたに顔を上げて、御言葉をいただくことが出来ますように。

 

 この祈りを私たちの贖い主イエス・キリストのお名前を通して御前に捧げます。  アーメン

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2016年12月 2日 (金)

FALL(死)ということ

「葉っぱのフレディ」という絵本があります。アメリカの哲学者レオ・バスカーリア博士が書いた絵本です。一〇年ほど前に日本でも有名になって、森繁久彌の朗読や、日野原重明演出のミュージカ劇になったりもしました。
フレディは一枚の葉っぱです。絵本には木の名前は書いてありません。絵から判断するとフレディはどうも楓らしい。葉の先が五つに分かれているのです。
 フレディは梢で多くの仲間と楽しく毎日を過しました。春風に誘われて踊ったり、夕立に体を洗ってもらったり、お月さまの銀色の光を浴びたりして。だから、フレディは「葉っぱに生れてよかったな」と喜んでいました。
 ですが、季節は移って寒い風が吹く頃になると、やがて友達は枯れて散っていきました。フレディは深い悲しみを抱きます。その時、友達の一人のダニエルが「変化しないものはひとつもないんだよ。変化するって自然なことなんだ。死ぬということも変わることの一つなんだよ」と教えるのでした。
 そして、最後、フレディも初雪の朝、空中をしばらく舞って、そっと地面に降りていきました。こんな物語です。 

先日東京にいる40年間のほとんどを過ごした教会の教会会報が送られてきました。見るとこの会報の中にT・Kさんが「『葉っぱのフレディ』The Fall of Freddie the Leaf」と名付けた小文を書いていました。

このT・Kさんは私が大学生の終わり頃まだ多分高校生だったと思います。彼は大学には一度で合格せず浪人したのでしたが、その間も熱心に教会に来て、私たちの仲間と触れ合って来たと記憶しています。土地柄、大学生や卒業間もなくの若者が大勢いる教会でしたが、その者たちは彼を「T・K君」と呼んで何かと声掛けをしていたのではなかったかと今に思います。
 時は過ぎ、T・Kさんがこうしてまだ教会の一員として信仰生活をしているのに反し、当時大学生だった仲間達や若者はその多くが今では天へと旅立っていってしまいました。司法試験合格を目指したSさんはその願いは叶わず埼玉県職員として勤め上げ、Tさんは大手企業の役職を終えた後、伝道所を立ち上げ伝道の道を進んだ後神様に召されました。
 いえ、年長の仲間だけではありません。T・Kさんと同年代の仲間、Yさん、Sさんももう教会を去って、天にいるのです。青年会で、あるいはまた教会学校で一緒に活動し、心を許しあった仲間たちはもうこの教会にはT・Kさんくらいになってしまいました。
 そのT・Kさんですが、浪人生活をした後、見事大学進学をなし、得意の英語力を用いて英文学を専攻し、やがてN大学の教授となりました。「ナルニア国物語」の著者C・Sルイスとかいう学者の研究者としても知られ、その分野ではどうやら権威者であるとの評を聞いたこともあります。
 その彼が「葉っぱのフレディ」を原書で彼流に読んでこの度、教会報に小文を執筆したわけです。送られてきたこの文章を読んで、ここには見過ごすことのできない彼らしい読みがあることに私は驚きました。
 その一つはThe Fallの訳が日本版では落ちているという彼の指摘です。T・Kさんは「邦訳者は「『落下』という葉っぱが落ちることを『死』と解釈している点では迷いがありませんが、子どもの読者を恐れさせてはいけないと確信してFallの言葉を捨て去ったのでしょう。だが、葉っぱの『落下』は自然界の事実です。」と書いています。確かに日本版の「葉っぱのフレディ」には「落下」はなく、「いのちの旅」との言葉が付されているだけです。
 次に私が刮目させられたのは葉っぱの名前に意味があるというT・Kさんの指摘です。枝先の葉っぱにはフレディの隣のアルフレッド、右側のベン、直ぐ上のクレア、物知りのダニエルなどと名前があるのですが、T・Kさんはこの名前はA、B、C、Dとアルファベット順になっている、そして、EがなくてフレディのFとなっていると言い、そして、こう締めくくっています。「さて、気になるのはEで始まる葉っぱが登場しないことです。このことはとくに意味があるわけではないという解釈も可能ですが、私は本書が「落下」「即―死」を問題にしていることに注目すると、葉っぱのEの不在は生まれることのなかった葉っぱについてそれとなく暗示していると解釈します。そのように解読すると、『葉っぱのフレディの落下』は生きることを許された者と生きることを中断された者の物語であることが立ち現れてくるのです。」
 名前がアルファベット順になっている、なるほど、そうです。いつも夢をみているようにワンテンポ遅れて笑顔で発言をするT・Kさんらしい気づきです。Eの名の葉が登場いないことに思いを馳せて「生きることを中断された者」に心を向ける姿勢に至っては彼独自の世界の表明としか言いようがありません。
 これは、いつか出生前診断について神と人の心を思いやった文章をある雑誌に書いた私には無視できないT・Kさんの言葉でした。

私はもうじき80歳を迎えます。体も大分弱ってきました。子どもの頃から抱えている身体の障害もより重くなり、毎日を痛みを友として生きる状態です。その上、先程書きましたように友の多くがFALLし、今は天上におります。
 そうした私に図らずも人生の多くの時を生きた教会から会報が届き、T・KさんからFALLの積極的、肯定な意味を浮かび上がらせていただいたことは喜びという他ありません。 

よい便りに触れた一日でした。

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2016年11月23日 (水)

イエスの苦しみ

今、私は「イエスとその弟子」(ピーター・ミルワード著)を読んでいる。定価120円の本だ。いつ買ったのかは分からないが、いい本はいつ読んでもいい。

本書によるとイエスが最後の晩餐を摂って、ゲッセマネの園に向かったのはエルサレムから身の危険を避けていつも留まっていたベタニアに帰る道筋に園が在ったからだという。その道筋がおもしろい。エルサレム市内の晩餐の部屋→神殿の門→ケドロンの小川→オリーブ山→ゲッセマネ、そうなるのだそうだ。だから、ベタニアに到着する前に、ゲッセマネの苦しみを負うことになったというわけである。

そこで何があったか。ユダの裏切りである。しかし、園に入る時には、イエスはその前兆の悲しみの重荷を他の弟子からも負わされていた。それはオリーブ山で必死に祈るイエスの悲しみを理解せず居眠りをする弟子、迫ってくるペテロの否認、弟子たちの逃亡、人々に捨てられること、さらには天の神の黙視であった。

イエスはこういう状況の中で捕らえられたのだ。一人ユダばかりが悪者なのではないのだ。この弟子たちの姿は私たちのそれでもある。

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2016年11月12日 (土)

御言葉をください

主なる神様、あなたの聖名を賛美いたします。

私たちをあなたは今朝もこうしてあなたの家に招いてくださいました。本当にありがとうございます。

 私たちは自己中心に、自分の利益や利害を重んじて生きる者ですが、あなたはその私のところに一方的に近づいて来られ、私たちをあなたの愛によって捉えてくださいました。

 どうぞそのあなたの御腕をしっかりと自覚し、あなたの愛にもう一度気づく者としてください。

 今朝もあなたの御言葉を聞くことのできる幸いを感謝いたします。預言者を通して語られたり、アブラハム、ヨセフ、ヤコブ、モーセを通して示されたあなたの業や言葉、そして、主イエスの民衆や弟子に語った言葉をどうぞ今日また私達に聞かせてください。

 そのために奉仕をなさる牧者を導き、励ましてください。

 さまざまなことがら故にここにおられない兄弟姉妹をお支えください。御こころをならば私たちがいただく言葉をその方の上にも届けてください。

この祈りを私たちの贖い主イエス・キリストのお名前を通して御前に捧げます。  アーメン

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2016年9月24日 (土)

世界に平和を 祈り

全てのことを御心に留め、愛のうちに導きたもう私たちの主なる神様、あなたの聖名を賛美いたします。

自己中心に日々を生きる私たちをあなたは今朝もこうしてあなたの御腕の中に招いてくださいました。本当にありがとうございます。 

世の指導者たちは世界の各地に集まって、紛争をなくし、滅びゆく自然環境を守り、また、国を追われて脱出しよとしている人達を助け、核の脅威から世界を救おうと会議を重ねています。

しかし、指導者の心は自国の力を誇り、利益を追求し、他国を支配しようとする色に染まったままです。

どうぞ、神様、あなたが会議に臨んで彼らの心を変え、あなたに従う者の心を優先し、地球に平和をもたらせてください。危険なボートに乗って国を追われる人達を救ってください。 

本庄教会にも愛と平和を与えてください。礼拝を感謝し、交わりを喜ぶ教会としてください。

あなたの御心を語り伝えるために奉仕する牧者を守り、導いてください。

さまざまなことがら故にここにおられない兄弟姉妹をお支えください。御こころをならば私たちと一緒にあなたを賛美するときをいつかの日にかお与えください。

 この祈りを私たちの贖い主イエス・キリストのお名前を通して御前に捧げます。  アーメン

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2016年9月18日 (日)

主からの光に

今日も礼拝を休みました。体に力が入らないからです。

礼拝の時間に祈りを捧げ、そして先日購入した木村利人著「戦争・平和・いのちを考える」を読みました。

第2章は「『幸せなら手をたたこう』の誕生」でした。木村先生はこの歌の歌詞の作者だったのです。

先生によれば、歌詞の誕生は聖書の言葉がヒントになったとのことです。それは

旧約聖書詩篇47:2 「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。」

新約聖書エフェソの信徒への手紙5章:8「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

です。エフェソの信徒への手紙はリビングバイブではこう訳されています。

「あなたの心は以前は暗やみにおおわれていましたが、今は主からの光にあふれています。そのことを態度でしめしなさい。」

礼拝に欠席した私に神様は力の言葉を掛けてくださいました。

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2016年7月13日 (水)

2016年度全国キリスト教障害者団体協議会総会 開会挨拶

 皆様 こんにちは

 私たちが今回、3度目の信州訪問を許されて今ここにこうして集うことができましたことを心から感謝致します。 

 前回の訪問は2006年度総会を7月3日・4日ウエルサンピア松本で持ったときでした。 

そのプログラムの中の証では3人の信仰が証しされましたが、そのお一人に三村武さんがおられたということを私は横井様から送っていただいたこの記念誌「シャローム ここも神の御国なれば」で確認させていただきました。 

 三村さんは「<全国キリスト教障害者団体協議会>の全国大会に当リメッセージ」というメッセージを送ってくださったのですが、その冒頭「母が高齢のためになるべく夜の運転は避けているので、この大会には出席できませんが、大会のご成功を神様にお祈りしています。こうして全国の敬愛する皆様方とご一緒に主イエス・キリストのみ名を賛美できることを深く感謝します。」と私たちに語りかけてくださいました。

 そして、その最後にはこの30年間父の死や様々なことがありましたが、絶えず神様により生かされ・愛され・守られたこと、また多くの信仰の兄弟姉妹方を知り得たことを感謝しています。今は「ささらの里」という障害者施設で、ほかの利用者と共に楽しく暮らしています。それでは皆様方の御健康とご活躍、また今後の<キ障協>のお働きのうえに神様の豊かなご祝福がありますようにお祈りしています。」と祈ってくださったのでした。
 

 この三村さんは記念誌によりますと、2014年3月26日神様の許へ帰られたとのことです。そしてこの記念誌が発行されたのですが、柳谷先生を前にして恐縮ですが先生は巻頭言の中でこう書かれておられます。

 「若い時にはお父様が連れてこられ、教会員の何人かが、まだエレベータのなかった礼拝堂に武さんを車椅子ごと運び入れ、礼拝堂のいちばん前で礼拝を守られました。その姿によって、教会は小さくされた者と共に生きる大切さや人生の意味を学んできたと思います。
 この数年間は寝たきりの状態になり、問安や聖書などの朗読ボランティアなどで交わりが与えられましたが、奉仕者にも大きな恵みが示されました。お会いした時の笑顔は忘れることができません。わたしたちは個人を讃えるためではなく、武さんの信仰の足跡によって、教会に示されたこの恵みを記憶し、その証を分かち合いたいとぃう思いから、記念文集の発行を企画いたしました。」
 

 私は今回の総会へのお招きの中で、信州なずなの会会長の北原さんが機関誌「信州なずなの会」36号で述べておられるこんな一節を引用させてもらいました。北原学人さんは「信州なずなの会は障害者団体としてではなく、障害者と健常者が共に、キリストに在って愛し、支えあいながら生きる共同体をめざして活動してきています」と書いていたのです。
 

 弱さが用いられて新しい信仰共同体ができる、強いものが弱い者を助け、援助し強いものの仲間に取り入れるのではなく、弱さがそのまま新しい世界を造り出していく、そこには弱さの肯定があります。主イエスが十字架という弱さの極みにまで落ちてくださり、そこから救いの新しい世界が誕生したことを思い、私たちは今回また私たちに与えられている主にある恵と求められている働きを確認しましょう。
 

 最後になりましたが、今お話した世界を求め、その恵に与っているこの信州で、総会の準備をしてくださった信州なずなの会の皆様、会場を提供し様々なご奉仕をしてくださる松本教会の柳谷先生始め会員の皆様、主題講演の堀越先生、その他関係の皆様方に心からのお礼を申し上げて、開会の挨拶とさせていただきます。

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2016年6月20日 (月)

牧師の辞任 2

今朝は肩の痛みがひどい。礼拝出席のためにクルマに乗る際腕に力をこめるからその影響で肩や上腕部に負担がかかるのだ。とは言え、礼拝出席は私の生き甲斐。礼拝にあずかれたことに感謝。

礼拝後臨時役員会。牧師の辞任を役員会として承諾した。その後招聘委員会に話題が移ったのだが、次期牧師を招聘する前に、謝儀をどうするかも決めておかねばならないとの発言があった。会員皆の献金のあり方が問われることになる。

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2016年6月14日 (火)

礼拝司会の祈り

聖霊の主、イエス・キリストの父なる神様。あなたの聖名を称えます。

私たちは聖霊によって今朝もこうしてあなたの御心が満ちるこの会堂に導かれました。このお導きに心から感謝致します。

あなたに導かれ、あなたの御言葉に接することこそが私たちの生きる力です。どうぞ、この教会をいつもいつもあなたの御心のうちに覚えてくださいますようにと心から祈ります。

神様、先日は北海道で小さな命が行方知れずとなり、大勢の人が心を痛めました。そして、その命が発見されたとき、私たちは大きな喜びに包まれました。

このように見失った一つの命を大切にする世界において、一方では戦争やテロによって数知れない命が失われています。

どうぞ、神様、世界の人皆に力に依り頼むことを止め、あなたの御心にすがって生きることを選ぶ知恵と信仰を与えてください。

これから先生の説教を通してあなたの御心を聞こうとしています。

どうぞ、心を開いて御言葉を受け入れることが出来ますように。

また、ここにおられない友、悩みの中にいる友、病の床にある友にあなたが臨んで、その心に、体に御言葉を届けて下さい。

 尊い御言葉を取り次ぐ先生を祝してください。

 この祈りを私たちの贖い主イエス・キリストのお名前を通して御前に捧げます。 アーメン

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