2017年7月15日 (土)

主にある教会 祈り

ご在天の父なる神さま。

あなたは新しい週の初め、私たちをこうしてこの本庄教会に招いてくださいました。私たちはあなたの御手が招くままに喜んで集ってまいりましいた。こうして集うことができることは大きな喜びであり、感謝です。ありがとうございます。

あなたは私たちを恵みをもってこの世から選び出してくださいました。そして、教会という体の一部にしてくださいました。どうぞ、体が一つであるように私たちを一つにしてください。そして、あなたが私たちを愛されましたようにお互いを愛し合う者としてください。そして、何よりも私たちがあなたの愛を知ることができたこの幸いをあなたを未だ知らない世に伝えることをなさしめてください。

今から先生の口を通してあなたの活ける言葉をいただきます。どうぞ、私たちがあなたの言葉によって潤い、励まされ、勇気を持ってこの世の歩みを続けていくことができますように。

 

望みながらもこの豊かな礼拝に連なることのできない多くの友がおられます。その友の上にもあなたの恵みが豊かにありますように。

全国各地にある教会の礼拝の祈りが私たちの祈りと共にあなたの許に届きますように。

この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン

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2017年4月29日 (土)

復活節の祈り

ご在天の父なる神さま。

今朝、こうして兄弟姉妹と共にあなたの家に招かれましたことに心から感謝致します。

神さま、私たちは今、あなたの御子のご復活に感謝する復活節の中を歩んでいます。

主は死んで、葬られた後、復活なされ、悲しみの中にいる弟子たち、逃げ去った弟子の許に御自らそのお体をお示しになられました。

今、私たちのところにもあなたが共におられることを心から信じることができますように。その手の釘の跡や脇腹にある穴を確かめることなく、あなたの臨在を信じる私たちでありますように。

そして、子どもが親を疑うことなく、無心に欲しいものをねだり、手に入れるまで求め続けるように私たちもあなたに信頼し、祈り求める者とならせてください。

今から疋田先生の口を通して活ける言葉をいただきます。

どうぞここにおられない友の上にも同じ恵みがありますように。

全国各地にある教会の平和を求める祈りがあなたの許に届き、あなたの平和が地上にも実現されますように。

この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン

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2017年4月24日 (月)

子どものようになる

聖書のマタイによる福音書18章にはこうある。
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
聖書は前後関係を考えながら読まねばならないから、この箇所にはこの箇所の特有の意味があるだろう。
だからこれから記す解釈は私個人の置かれた場所からのものといっていい。
子どもは欲しいものがあれば親に遠慮なしに要求する。ひと目構わす地べたに座り込んでも欲しいものを賣る店の前を去ろうとはしない。翻って私たちは己の願いをかくまで神さまに祈ることがあろうか。祈りの課題を設けても、祈り終わると、それでよしとはしていないだろうか。
子どもがそうまでして親に訴えるのは親への信頼が強いからだといえる。親は豊かで、願えば叶えられる力の持ち主だと信じているのである。
だから、大人の私たちが熱心に神さまに祈らないのは神さまの心の大きさ、その慈悲、愛の深さを心底信じていないとも考えられる。
聖書を毎朝読み、祈り、礼拝を捧げる信仰生活を送っている私であるが、今朝は「子どものように」というイエスの一言に信じる心のありようを省みる必要を思わされることとなった。

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2017年1月15日 (日)

雪の朝

 礼拝出席のためにマナーモードに設定した携帯電話が胸のポケットで震えた。牧師先生からの電話だ。「今朝は危険ですからお休みにしましょう」。
 週ごとに家まで迎えに来てくださり、また送ってくださる牧師先生。自分で運転ができなくなったからここ数年、黙々と私の礼拝主席を守ってくださった人である。
 カーテンを開けると確かに雪景色が広がっていた。足が浮腫むようになってから衣服の着脱には多くの時間を要するのだが、今朝は外出用のズボンとシャツをようやく身につけたこのままで過ごすことにしよう。

 今週は我が家で地区集会が持たれる。ヨシュア記を学び、祈る集会である。その時を楽しみに待つことにしよう。

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2017年1月 8日 (日)

新年の祈り

恵みに富みたもう主なる神様、あなたの聖名を賛美いたします。

新しい年の初め、こうしてあなたにある兄弟姉妹の皆様と共にあなたの家である教会の礼拝に集わせてくださり心から感謝致します。

 

あなたの御心によって私たちはここに教会を建て、あなたを中心とした共同の場所を形作ってまいりました。どうぞ、これからもあなたに生かされて御心を広くこの世に伝える業をなさしめてください。

特に今年は長く奉仕の業を務めてこられた牧者を送り、新しい牧者を迎える年となりました。どうぞ、ここ本庄教会で喜びの内に奉仕をしてくださる先生をあなたがお与えくださいますようにと心から祈ります。

かつて旧約の祈りにおいて「あなたはわたしの主。あなたのほかにはわたしの幸いはありません」と歌われたように私たちもあなただけを崇め、賛美し、より頼んで教会生活を続けて行くことが出来ますように。

 

神様、今日もここに集えない多くの兄弟姉妹がおられます。その事情はさまざまですが、どうぞ、御心でしたら再び共に礼拝に与ることが許されますように。

集えない今朝はその方々がその場所においてあなたに顔を上げて、御言葉をいただくことが出来ますように。

 

 この祈りを私たちの贖い主イエス・キリストのお名前を通して御前に捧げます。  アーメン

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2016年12月 2日 (金)

FALL(死)ということ

「葉っぱのフレディ」という絵本があります。アメリカの哲学者レオ・バスカーリア博士が書いた絵本です。一〇年ほど前に日本でも有名になって、森繁久彌の朗読や、日野原重明演出のミュージカ劇になったりもしました。
フレディは一枚の葉っぱです。絵本には木の名前は書いてありません。絵から判断するとフレディはどうも楓らしい。葉の先が五つに分かれているのです。
 フレディは梢で多くの仲間と楽しく毎日を過しました。春風に誘われて踊ったり、夕立に体を洗ってもらったり、お月さまの銀色の光を浴びたりして。だから、フレディは「葉っぱに生れてよかったな」と喜んでいました。
 ですが、季節は移って寒い風が吹く頃になると、やがて友達は枯れて散っていきました。フレディは深い悲しみを抱きます。その時、友達の一人のダニエルが「変化しないものはひとつもないんだよ。変化するって自然なことなんだ。死ぬということも変わることの一つなんだよ」と教えるのでした。
 そして、最後、フレディも初雪の朝、空中をしばらく舞って、そっと地面に降りていきました。こんな物語です。 

先日東京にいる40年間のほとんどを過ごした教会の教会会報が送られてきました。見るとこの会報の中にT・Kさんが「『葉っぱのフレディ』The Fall of Freddie the Leaf」と名付けた小文を書いていました。

このT・Kさんは私が大学生の終わり頃まだ多分高校生だったと思います。彼は大学には一度で合格せず浪人したのでしたが、その間も熱心に教会に来て、私たちの仲間と触れ合って来たと記憶しています。土地柄、大学生や卒業間もなくの若者が大勢いる教会でしたが、その者たちは彼を「T・K君」と呼んで何かと声掛けをしていたのではなかったかと今に思います。
 時は過ぎ、T・Kさんがこうしてまだ教会の一員として信仰生活をしているのに反し、当時大学生だった仲間達や若者はその多くが今では天へと旅立っていってしまいました。司法試験合格を目指したSさんはその願いは叶わず埼玉県職員として勤め上げ、Tさんは大手企業の役職を終えた後、伝道所を立ち上げ伝道の道を進んだ後神様に召されました。
 いえ、年長の仲間だけではありません。T・Kさんと同年代の仲間、Yさん、Sさんももう教会を去って、天にいるのです。青年会で、あるいはまた教会学校で一緒に活動し、心を許しあった仲間たちはもうこの教会にはT・Kさんくらいになってしまいました。
 そのT・Kさんですが、浪人生活をした後、見事大学進学をなし、得意の英語力を用いて英文学を専攻し、やがてN大学の教授となりました。「ナルニア国物語」の著者C・Sルイスとかいう学者の研究者としても知られ、その分野ではどうやら権威者であるとの評を聞いたこともあります。
 その彼が「葉っぱのフレディ」を原書で彼流に読んでこの度、教会報に小文を執筆したわけです。送られてきたこの文章を読んで、ここには見過ごすことのできない彼らしい読みがあることに私は驚きました。
 その一つはThe Fallの訳が日本版では落ちているという彼の指摘です。T・Kさんは「邦訳者は「『落下』という葉っぱが落ちることを『死』と解釈している点では迷いがありませんが、子どもの読者を恐れさせてはいけないと確信してFallの言葉を捨て去ったのでしょう。だが、葉っぱの『落下』は自然界の事実です。」と書いています。確かに日本版の「葉っぱのフレディ」には「落下」はなく、「いのちの旅」との言葉が付されているだけです。
 次に私が刮目させられたのは葉っぱの名前に意味があるというT・Kさんの指摘です。枝先の葉っぱにはフレディの隣のアルフレッド、右側のベン、直ぐ上のクレア、物知りのダニエルなどと名前があるのですが、T・Kさんはこの名前はA、B、C、Dとアルファベット順になっている、そして、EがなくてフレディのFとなっていると言い、そして、こう締めくくっています。「さて、気になるのはEで始まる葉っぱが登場しないことです。このことはとくに意味があるわけではないという解釈も可能ですが、私は本書が「落下」「即―死」を問題にしていることに注目すると、葉っぱのEの不在は生まれることのなかった葉っぱについてそれとなく暗示していると解釈します。そのように解読すると、『葉っぱのフレディの落下』は生きることを許された者と生きることを中断された者の物語であることが立ち現れてくるのです。」
 名前がアルファベット順になっている、なるほど、そうです。いつも夢をみているようにワンテンポ遅れて笑顔で発言をするT・Kさんらしい気づきです。Eの名の葉が登場いないことに思いを馳せて「生きることを中断された者」に心を向ける姿勢に至っては彼独自の世界の表明としか言いようがありません。
 これは、いつか出生前診断について神と人の心を思いやった文章をある雑誌に書いた私には無視できないT・Kさんの言葉でした。

私はもうじき80歳を迎えます。体も大分弱ってきました。子どもの頃から抱えている身体の障害もより重くなり、毎日を痛みを友として生きる状態です。その上、先程書きましたように友の多くがFALLし、今は天上におります。
 そうした私に図らずも人生の多くの時を生きた教会から会報が届き、T・KさんからFALLの積極的、肯定な意味を浮かび上がらせていただいたことは喜びという他ありません。 

よい便りに触れた一日でした。

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2016年11月23日 (水)

イエスの苦しみ

今、私は「イエスとその弟子」(ピーター・ミルワード著)を読んでいる。定価120円の本だ。いつ買ったのかは分からないが、いい本はいつ読んでもいい。

本書によるとイエスが最後の晩餐を摂って、ゲッセマネの園に向かったのはエルサレムから身の危険を避けていつも留まっていたベタニアに帰る道筋に園が在ったからだという。その道筋がおもしろい。エルサレム市内の晩餐の部屋→神殿の門→ケドロンの小川→オリーブ山→ゲッセマネ、そうなるのだそうだ。だから、ベタニアに到着する前に、ゲッセマネの苦しみを負うことになったというわけである。

そこで何があったか。ユダの裏切りである。しかし、園に入る時には、イエスはその前兆の悲しみの重荷を他の弟子からも負わされていた。それはオリーブ山で必死に祈るイエスの悲しみを理解せず居眠りをする弟子、迫ってくるペテロの否認、弟子たちの逃亡、人々に捨てられること、さらには天の神の黙視であった。

イエスはこういう状況の中で捕らえられたのだ。一人ユダばかりが悪者なのではないのだ。この弟子たちの姿は私たちのそれでもある。

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2016年11月12日 (土)

御言葉をください

主なる神様、あなたの聖名を賛美いたします。

私たちをあなたは今朝もこうしてあなたの家に招いてくださいました。本当にありがとうございます。

 私たちは自己中心に、自分の利益や利害を重んじて生きる者ですが、あなたはその私のところに一方的に近づいて来られ、私たちをあなたの愛によって捉えてくださいました。

 どうぞそのあなたの御腕をしっかりと自覚し、あなたの愛にもう一度気づく者としてください。

 今朝もあなたの御言葉を聞くことのできる幸いを感謝いたします。預言者を通して語られたり、アブラハム、ヨセフ、ヤコブ、モーセを通して示されたあなたの業や言葉、そして、主イエスの民衆や弟子に語った言葉をどうぞ今日また私達に聞かせてください。

 そのために奉仕をなさる牧者を導き、励ましてください。

 さまざまなことがら故にここにおられない兄弟姉妹をお支えください。御こころをならば私たちがいただく言葉をその方の上にも届けてください。

この祈りを私たちの贖い主イエス・キリストのお名前を通して御前に捧げます。  アーメン

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2016年9月24日 (土)

世界に平和を 祈り

全てのことを御心に留め、愛のうちに導きたもう私たちの主なる神様、あなたの聖名を賛美いたします。

自己中心に日々を生きる私たちをあなたは今朝もこうしてあなたの御腕の中に招いてくださいました。本当にありがとうございます。 

世の指導者たちは世界の各地に集まって、紛争をなくし、滅びゆく自然環境を守り、また、国を追われて脱出しよとしている人達を助け、核の脅威から世界を救おうと会議を重ねています。

しかし、指導者の心は自国の力を誇り、利益を追求し、他国を支配しようとする色に染まったままです。

どうぞ、神様、あなたが会議に臨んで彼らの心を変え、あなたに従う者の心を優先し、地球に平和をもたらせてください。危険なボートに乗って国を追われる人達を救ってください。 

本庄教会にも愛と平和を与えてください。礼拝を感謝し、交わりを喜ぶ教会としてください。

あなたの御心を語り伝えるために奉仕する牧者を守り、導いてください。

さまざまなことがら故にここにおられない兄弟姉妹をお支えください。御こころをならば私たちと一緒にあなたを賛美するときをいつかの日にかお与えください。

 この祈りを私たちの贖い主イエス・キリストのお名前を通して御前に捧げます。  アーメン

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2016年9月18日 (日)

主からの光に

今日も礼拝を休みました。体に力が入らないからです。

礼拝の時間に祈りを捧げ、そして先日購入した木村利人著「戦争・平和・いのちを考える」を読みました。

第2章は「『幸せなら手をたたこう』の誕生」でした。木村先生はこの歌の歌詞の作者だったのです。

先生によれば、歌詞の誕生は聖書の言葉がヒントになったとのことです。それは

旧約聖書詩篇47:2 「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。」

新約聖書エフェソの信徒への手紙5章:8「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

です。エフェソの信徒への手紙はリビングバイブではこう訳されています。

「あなたの心は以前は暗やみにおおわれていましたが、今は主からの光にあふれています。そのことを態度でしめしなさい。」

礼拝に欠席した私に神様は力の言葉を掛けてくださいました。

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