2017年6月 6日 (火)

家事の慰み

昼はラーメン。マルちゃん正麺を簡単鍋で3分ほど茹でて、あらかじめ溶かしてある汁に入れるだけでできる。とは言っても右手が利かなくなっているから、鍋の取っ手を持つのも、丼に入れるのも左である。万一、膝の上にでもこぼしたら大やけど。そこは慎重にやらねばならない。
乾燥具材を入れて彩りを豊かにしたこともあったが、簡単が第一。素面で十分である。

しばらくして、ズボンの裾をまつった。脚を持ち上げる時、いつも裾を掴んで引っ張るので裾がほつれてしまったのだ。
長い針に黒糸を通し、縫っていく。目も荒く、針を刺すところも一定しないので酔っぱらいの足跡のような仕上がりである。でも、これでよい。
午前中は新島襄伝を読み、目が疲れていた。そんな時間が多い生活の中でこうした家事はこの世に生きていることを実感させてくれる一時でもある。

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2017年5月 3日 (水)

言葉の力

友人があるチャプレンのメッセージの載ったカソリック系の病院のパンフレットを送ってくれた。そこには「様々な手」と題して手が日常で、また人の生い立ちの中で様々な働きをしている様子が丹念に書かれていた。差し伸べられた命を抱きしめた手、服を着た手、祈るために使った手、涙を拭う手、夫を抱いた手、おむつを替えたり、洗ったり、しぼったり、乾かしたり、たたんだ手。・・・・自分の親、配偶者を見送り葬った手、自分の顔を手で包みこみ、慰めた手。
 こう書いたあと、筆者は「この手は私がどこへ行ったか、何をしたかのしるしです。・・・私の生涯を表している手です」と段落を締めている。
 そして、その後の段落で「私たち個人個人は置かれたところで手を使って、やさしい社会で生活できるように努めたいものです。手は使うほど、手を培って人々のために仕えやすくなります。手は使うためにあるのです。手を差し伸べて歩みたいものです」とこの文章を終えている。
 私は一人ひとりに与えられているその人の手をこんなに丁寧に見つめた文章を初めてみた気がする。人との関わりを取り持ってくれる手。筆者の言うとおり、神様から与えられている手を人に差し伸べて温かい輪を形作りたいものである。
 私は今日のタイトルを「言葉の力」とした。それはチャプレンのB・D・Sさんの言葉の持つ力に揺り動かされたからである。言葉はまさに力なのだ。

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2017年4月25日 (火)

条件付けられて

ある刺激が与えられてそれに反応した時、心地よい報酬がもらえると、生物はその刺激に自然と同じ反応を返していくようになる。すなわち条件付けが成立するのだ。
これから紹介する話は実はこんな固い説明が必要な話ではない。
私は肝臓の機能が落ちているので毎食後スティックに入った薬を服用している。もう5年は超えているだろう。スティックを力のなくなった指でなんとか開き、上を向いて飲み込む動作を何年もやっているというわけである。
さて、先日何か飲みたくなった。インスタントコーヒー、緑茶、リンゴジュース、どれもいやだ。ふとコーヒースティックが目についた。よし、今まで飲んだことがないこれにしようと決めた。早速、ハサミを使ってスティックを破った。その時、私の手はその中身をカップに持っていかなかったのだった。なんと驚くことに口へと運んだのだ。条件付けが起こったのである。
慌てて洗面所に走り、吐き出し、何度も口を洗浄したが、洗面台は赤茶けた色を簡単には消してくれなかった。
笑えない出来事の顛末である。

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2017年4月 6日 (木)

机の花

書斎の机の上に花が飾られた。赤い花弁が鮮やかなベコニアであろうか。これは誕生日の祝に駆けつけてくれた三男が持ってきた花の一鉢である。昨夜長男がかごに入った鉢を分けてその一つを書斎に持ってきたのである。お陰でニュートラルな書斎の雰囲気が少し潤ったような気がする。
長男は黙っていろいろと気を遣ってくれている。例えば、勤めに出かける前、それまで4チャンネルだったテレビを1チャンネルに変えていくのだ。その上、字幕の設定まですることさえある。8時から始まるテレビ小説を私が毎日観ていることをしっているし、その中で交わされる会話が聞き取りにくい耳に私が最近なってきたことも分かってのことである。
妻がいなくなって生活の中で行うこまごまとしたことに他人から気遣ってもらう機会が少なくなっている現在、こうした小さな配慮は嬉しいものである。
ついでにもう一つの配慮を挙げてみる。それは私の朝の楽しみの一つである新聞読みへの気遣いである。私は小一時間食事の後で新聞を読むのだが、その新聞は私が居間に行く前にポストから長男夫婦のどちらかが取ってきてテーブルに載せておいてくれる。その時、長男だった場合は折込チラシを抜き取って新聞だけを置いてくれるのである。小さな心遣いであるが私はそれにホッと心が和んでその後の時を過すことが出来るのである。

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2016年12月16日 (金)

痛い、痛いと言う

時々、体のあちこちがつる。しばらくの我慢であるがその時の痛みはきつい。次の動作に入ることが出来ない程だ。
独りの生活だから誰にも聞いてもらえないが、私は「痛い、痛い」と声を上げる。「あー痛い、痛い」と。この声を聞くのは自分しかいないが、それでも言わないより痛みの軽減にはよい。

最近子どもの自死が問題になっている。学校でいじめに遭って、親にもその苦しみを言えず、先生には聞いてもらえず、死を選んでしまう。「苦しい、つらいよ」と何処にでもいいから声に出してほしいものだとつくずく思う。
正岡子規が脊椎カリエスで相当の痛みを負いながら生きた話は有名である。彼も痛い、痛いと言いつつ、最期まで俳句を作って生活を楽しんだのだ。
子規が亡くなったとき、お母さんは「もう一度、痛いと言うてみ」と息子の死を悼んだという。

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2016年12月13日 (火)

ちょろぎのよな指を持ち
まんじゅうのように膨らみ
只 重さだけは余るほどある
そして、かわいそうに いつも冷たい私の左足よ
そんなお前が私は好きだよ...
 
今朝   何度お前を擦ったことだろう

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2016年10月25日 (火)

ギビング アンド レシービング

S氏は私より3歳年配の方である。先日、同氏は多くの方たちに手紙を書いて、今までの厚誼を感謝し、これからは従来のようにお交わりをすることができません、と知らせたのだった。それは病気の奥様の世話と己の体の弱まりが主な理由だという。年賀状もこれからは失礼することにします、とも付け加えておられた。
この手紙に接した方たちは同氏の誠実なお人柄を偲び、たくさんの良いお付き合いをいただいた事実を挙げて感謝の手紙を送ったという。
私個人においてもこの事実は変わりなく、S氏には長い間、負いきれない程のご援助をいただいた。公には学校行事において、また学級経営において、その支えは私の教師生活を維持していくのに欠かせないものだった。
個人的にはC型肝炎の治療で勤務からの帰り道、医院に寄って注射を打つ時、雨の中を道路脇に停めた車から傘をさしかけて私を守り、治療が終わって宿舎にたどり着くまで面倒を看ていただいたことなど数えたらきりがない。
このS氏と先程電話で話したのだが、金曜日は奥様がデイケアに一日行っているので、時間を作って在任中担任した生徒Y子さんを施設に訪ねたそうである。
Y子さんは身体的にも知的にも重度の障害を持つ人である。だが、そのこころには天性の優しさが宿り、私も彼女の指導をしているときにはたくさんの癒しをいただいていた。
先日訪ねたとき、もう今は会話をすることが不可能になってしまったがS氏に触れる喜びはその体の動きからわかったとのことだ。
帰宅するとY子さんのお母さんから喜びのお礼の電話があったともS氏はおっしゃっていた。
S氏の訪問というY子さんへの愛情のギビング(与えること)とY子さんが体で示してくれた応答とお母さんの感謝をS氏がレシーブすること(受け取ること)はこうして同時に生まれて、一つの世界となって広がるものなのだろう。

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2016年10月14日 (金)

通信教育の数学教師

半藤一利の「漱石先生ぞな、もし」を暇にあかして読んでいると時々おかしなことに出合う。その一つ。
漱石が松山中学に赴任して直ぐ、弘中又一という人物が同中学校にやって来た。数学の先生だ。
ところが翌年には二人揃って松山を去り、漱石は熊本の第五中学校へ、弘中は熊谷中学校へと別れたのだそうだ。
ここまでは私にとってさほど興味あることではない。
その次である。熊谷へ来た弘中は坊っちゃんのモデルになった人物と言われるだけあって熊谷でもひとのやらない行動をあれこれやらかしたようである。それを丹念に調べ上げた人がいると半藤一利が書いている。宮崎利秀という熊谷高校の数学教師である。
彼は弘中の住居はおろか家族構成、弘中の生涯まで丹念に追ったとのこと。
ここまで読んだとき、私はふとこの宮崎利秀という人に会っているのではないかという気がしてきた。半藤一利がこの先生は昭和26年から熊谷高校で数学教師として教壇に立ったと記しているからである。
私は昭和28年の春、隣町の高校から入学を断られ、やむなく熊谷高校の通信教育を受けることになった。そして、松葉杖にすがって、月に一度スクーリングのため熊谷高校へ汽車とバスを乗り継いで通ったのだった。当時の熊谷高校は畠中にあって、測候所の前のバス停から長い道を歩かねばならなかった。
通信教育部は小さな木造の教室だったが、そこで先生方と交わり、勉強の仕方などをお教わっていた。
数学教師は背が高く、顔の長い、着ているものから言っても一風変わった人に見えた。偏屈というわけではない。接すれば良い人なのである。確か国語の教師は高木某と言ったと思う。
全く根拠はないのだが私には半藤一利が又一の話を聞いたという宮崎なる人物があの数学の先生に思われてならないのだ。
今こうして人生の終わりを無事に過ごしているこの私の生涯の源流で出会ったかもしれない苔むした石にも似た人、それを呼び覚まされた私は心地よい心境にある。

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2016年10月10日 (月)

10月9日 日曜日

9時半にはいつものように牧師先生の車が玄関前に停まって、私は痛む肩をかばいながら先生にベルトを引っ張ってもらってそれに乗り込んだ。
礼拝を守り、その後牧師招聘委員会に出席し、また先生に送っていただき留守になっていた家に帰った。息子夫婦は子どものサッカーの応援で仙台に行ってしまったからだ。用意してあったおにぎりを食べ、その後競馬を少しやっているうちに夕方が近づいて来た。
そうして時間が流れる中私のこころの中には浮き沈みするなにかがあった。枯葉のようでもあり、ちぎれ雲のようにも感じられる。
そうこうしていると娘が越谷からやって来た。今夜の留守番をし、私の食事の世話をするためである。
夕食の時、カレンダーを見ながら、今日は9日だよね。今朝からなんだかわからないが忘れ物がある気がするんだよね、と会話の中につぶやいてみた。
「結婚記念日ではないの」、娘はすかさずそう言った。
ああ、そうであった。私は忘れていたのだ。
その日も日曜日の10月9日だった。学校の運動会の日、私は教会で結婚式を挙げたのだった。
12日には訪問歯科の治療がある、14日は耳鼻科に行く、20日は教会の地区集会が我が家で開かれる、そうしたことが心を占領し、私は青春の日の想い出を過去のものとして忘れ去ろうとしている。
砂を噛むような思いがゆっくりと私の中を通り過ぎた。

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2016年9月21日 (水)

千恵ちゃんからのメール

かつての「教え子」千恵ちゃんからメールが届いた。もう65歳ほどだろう。年上の夫を送って一人で子育てをし、その子どもたちにも皆家を去られ、一人元気に頑張ってきた千恵ちゃん。時々は商店街の親しい店から煎餅を私に郵送して来た彼女である。
近年は家事が思うようにできなくなって障害者支援制度を使ってヘルパーさんと親しく日々を送っていたのだが、介護保険制度に移行してからはなにかと問題に直面している。
メールはいつかは消えてしまうのでここに彼女の力強く生きる姿を残しておくためにメールを貼り付けておくことにする。

このごろ、パソコンに向かうことが少なくなりました。
介護保険になり早くも1か月が過ぎましたが、まだ慣れません。慣れようとも思いません。肌に合わないのでしょうね。
何でもソーシャルワーカーに言わないとヘルパーは動いてくれません。私のような気の短い者には頭にくることばかりです。
朝に入ってくれるヘルパーは全部、違う人なんですよ。私は6時には起きて自分ができることはなるべく自分で。という小さい時からの癖でやりこなすと、あるヘルパーさんは褒めまくりで、ご自分は何もせず、おしゃべりに来たような感じで帰って行かれました。かと思うとコップからこぼれ落ちる雫まで丁寧に拭いて行かれるヘルパーさんもいらしゃいます。
長年ヘルパーさんにきてもらってますが、これほど困惑したことはありませんね。

話は変わりますが、この間ね、肺のCTを撮って結果を聞きに行ったのですが、ガンが増えてました。小さいものがフヨフヨあったのですが、まだ小さいので心配は要らない。とのことです。
大丈夫ですよ、先生より先に逝ってたまりますか??こんな美人の千恵ちゃん。死んでたまりませんよ~。
頑張りますよ、死ぬまで、千恵は千恵らしくね。
死ぬことは全然怖くはないの。今は死にたくないの、神様に「もう少しだけ生かしておいてください。」って、お願いしてます。

もう遅くなりました。千恵ちゃん、おねむです。おやすみなさい。

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