2015年7月14日 (火)

友からの手紙 からだとの対話を読んで

対話と言うよりは闘っているように感じました。身体と対話を続ける様子がよくわかります。
私たちはすべてを受け入れて生きなければなりません。いいことも悪いことも感謝をもって喜びも悲しみも常に神様から与えられたものです。

昨年入院して1年になります。どうなるとか思いましたが貴兄のメールで、そして俳句作りなどで痛みを乗り越えることができました。

一昨日は礼拝にタクシーで行ってきました。私の原点はここにあるのだと再確認して頭をタクシーにぶっつけながら帰りました。
22日にはコスモスの会の役員会です。できる限りの活動を続けるつもりです。。
キ障協総会は収穫の多い総会でした。牛込教会の若い牧師夫妻に会えたことも感謝でした。私が教会礼拝の大切さを教えられた教会でもあります。
すべてが益となって働いている神様に感謝しています。

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2014年4月18日 (金)

あるべきところ

週に二度マッサージを受けている。浮腫の軽減、肩や腕の痛みの緩和、首の凝りの除去などその効能はいくつかある。夜以外に仰臥位で寝ることはない体にとってこの30分~40分は至福の時である。
その施療の中で気づいたのだが、私のように体が歪み、常時不自然な姿勢をとっていると、仰臥したときでも本来的に与えられている体のありようを体が忘れてしまっているということだ。

マッサージ師が寝ている私の腰のあたりを持ち上げて少し横にずらす。見下ろすと不自然にねじれているのだろう。不思議なことにそうやっていただいた途端、ふっと我が体は誕生時の我に帰って、母から与えられたあの安堵感を覚えるのであった。

しかし、その本来の位置は起き上がり、車いすに座ったときにはもうとることが出来ない。望まいない姿勢でないと動けないのだ。

不自然と知りつつそこに生きる。人の姿の象徴を見るようである。

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2012年9月11日 (火)

出生前診断のこと

先日、日本でも血液によって簡単に出生前診断ができるようになり、限られた医療機関ではあるがこれを行う旨の新聞記事が出た。
以前書いたように人の命を人が選り分けることは慎重にも慎重を重ねるべきことだと思うし、もしこれを認めれば自らの存在の確かさも失いかねないとの認識を持っているのだが、そのことを新聞に投書してみる決断はつきかねていた。
最近私の原稿の採用率は0に近いからだ。また、きっと出生前診断に疑問を投げかける人、いや障害を持つ人の存在を体験から積極的に肯定する人の声が載るに違いないとの安心感もあったからである。
そして今日。朝日新聞の声欄には下の方ではあるが二人の方の期待した発言がしっかりと紹介されていた。そのうちのお一人、ダウン症の娘さんをお持ちの方は「この世に生まれるということは本人にも選べない神様の領域なのだと知らされました」とおっしゃっていた。
学会やマスコミが出生前診断への批判や疑問を呈することの少ない今、もっともっと当事者の声が大きくなることを期待したい。

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2012年6月28日 (木)

体のリズム

現役のころ体から届くカウンセリングワークショップに参加していた。「体から届く」では意味がわかりにくいだろうが、体がいいものを私に届けてくれることには違いないのだ。
このワークショップを思い出したのは実は今朝NHKTVで日本のあるピアニストがイギリスに旅をして地元の子供との音楽を通した交わりをしている様子を見たからである。
ワークショップを経験したことのないこの音楽家は真剣に交わろうとしていたがどこかぎこちなかった。
彼女は現地で世話をしてくれる人の計らいで障害を持っている人のダンスのワークショップにも参加した。車椅子に乗った少女たちが音楽に感じるままに身を任せて踊る姿は感動的だった。だが、そこでもピアノ伴奏を頼まれた彼女の顔には喜びが感じられなかった。もっと自分も楽しめばいいのに、と見ていて歯がゆかった。
画面の少女たちは電動車椅子を自由に動かし、また自分の足で踊っている者は車椅子の人と交わりながらリズムに身を任せていた。私もその輪に入りたくなって、TVの前で動き始めた。
人の体は動きたいものなのだ。自然の中にあるリズム、体本来のリズム、触れ合いの中のリズム、それに体が応える、それが動き、踊りだろう。
体があることを喜ぶ体験をした朝だった。

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2012年3月10日 (土)

生きる

女優の原千晶さんがアメリカ・先住民族の暮らしているアリゾナ州ナバホ居留地を訪ねた様子を今朝のテレビが伝えていた。原さんはガンに罹ったことがある女優さんだそうだ。大きな自然の中で素朴に生きている老人に、死をどう考えるか、と聞くと、彼は死を考えない、生きる美、自然の美の中で今生きていることを感謝して生きるだけだ、そんな意味の答えを返した。
なるほどなぁ、と私は力を受ける思いがした。
ここ数日体調がおもわしくなく、深夜呼吸が不安定になるともうダメかと思う。死は私たちには終わりでなく、その先には天国の生活が待っている。だから恐れることはないのだ、と自分に言い聞かせる。
目覚めてよく電話で話す友に弱音を吐くと、彼も仏教の本を見て同じ事を思うと言っていた。
そんな中で今朝のテレビ。もっと今の生きている現実を大事にせねば、と思い知らされたのだった。

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2010年8月30日 (月)

体で喜びの表現を

教会で讃美の時を持とうと話し合っているとき、輪になって手を握り合ってやってみましょうと提案した。

私たちは言葉だけで交わることが多い。いや、人と交わる場面のみならず生活の中でも言葉を聞くとそのものが理解できたように思ってしまう。目で見る、それでその対象が分かったと納得する。
 
だが一度体を用いて、そのものに触れ、感じ、相手の量(マッス)を知ると、世界が新しくなったような感動と喜びを味わうものだ。
 
讃美も手をとりあって行うとこの体を持った友と一緒に神に感謝しているという実感が強くなるだろう、そう私は思うのだ。
  
だが日本人は他人に触れることに慣れていない。私もそうだった。だからこの讃美方法に疑問をもつ人の心が分かるし、強制はできない。

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2010年8月10日 (火)

臓器移植に思う

昨夜から脳死移植のニュースがマスコミを賑わしている。改正臓器移植法に基づく初のケースとしてニュース価値が高いのだろう。
臓器移植法が改定されて、脳死と判定された人の意思が不明でも、拒否の意思表示がなければ家族の承諾で提供できるようになったのだ。

摘出された心臓、肺、肝臓それに腎臓は全国各地の病院で移植されるという。

臓器を提供することに踏み切った家族の判断は重い。これを批判するつもりは私には毛頭ない。

だが、一般論として心に引っかかるものがあることは否定できない。

移植の際だけ認められる「死」があることにも人間中心の人間観を見るのだがそれは今回は置いておこう。

問題は移植という行為への根源的な疑問である。

臓器移植を肯定する論理の根底には人の体は部分の集積であるという人間観があるのだろう。近代思想が成立する以前は人は神の被造物であってそこに疑問を挟む余地はなかった。だが、デカルトの時代から人間を対象として分析的に捉えることになった。人間の体は機械のようであり、多くの部品によって組み立てられているという人間観の誕生である。

これは自然科学に長足の進歩を促すようになり、その結果人間生活に多大な貢献をしてきた。

だが神を忘れた人間は、今や人間の命まで創ることに挑戦するようになり、人が神の愛のもとに造られたものであることを忘れてしまっている。

神の造りたもうものには人間の基準から言えば非効率的、非経済的、存在の意味すら不明のものがある。しかし、その不完全さ、弱さを用いて神はこの世を変えようとしている。

機能しない人間の体の部分、知識を十分に用いることの出来ない人、体の一部が先天的に欠損している子どもたち、この人達はそのままで、人の世で生きるように、また生かされるように神は意図して創造されたのである。

そう考えると臓器移植が人間社会の今後の進むべき道として奨励されることに私の中には疑問符の陰が大きく投影されてくるのである。

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2010年2月18日 (木)

ボディ・イメージの変化

月曜日と木曜日マッサージを受けている。この日が来るのを楽しみに待っている、そんなマッサージを受けている。
私のつらい部位を的確に捉え、そこを重点的に揉みほぐしたり、力をかけてくれるのでなんともありがたい。
それだけではない。脊柱が湾曲し、いつも猫背で生活しているともともとの人間の体を忘れてしまうのだが、彼は私の曲がった部位を押し戻し、体をひねり、自然の姿を取り戻すような援助をしてくれるのである。すると私の体は天に向かって垂直になり、天地の軸にはまったようになる。
この歳になってもう一度身体像(body image)を変化する機会を与えられている。

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2009年3月13日 (金)

そけいヘルニア

そけい部に最近違和感がある。左に比べて右の下腹部が盛り上がっている感があるのだ。右側は麻痺がないから力も入る。それゆえ筋肉もついているのかとも考えたが、どうも筋肉ではないらしい。
力を入れて立ち上がると小さなおはぎでも入っているようになってきてしまった。昨日ネットで調べるとヘルニアらしいことがわかった。そうとなると気になってしかたがない。
天気予報が外れて午前中は雨にならなかったので姉に付き添ってもらって病院に行くことにした。
以前は恥部をさらすことに大変な抵抗感があって下半身の診療科にはかかれなかったが、今はそんなこともなくなった。看護師さんに手伝ってもらってパンツを下げ、診察を受けた。
間違いなくそけいヘルニアだとの診断。治療は手術しかないそうだが、ただ、痛いとか気になって仕方がないのでないならば今すぐに手術はしなくていいとのこと。
一安心である。
加齢は多種多様の病気をつれてくるものだ。

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2009年2月17日 (火)

デイサービス

火曜日と金曜日はデイサービスの日。12時半ごろ車が迎えに来てくれる。それまでに昼食を終え、家の熱器具を点検しなければいけないから午前中は落ち着かない。だが、サービスを受けているときの心地よさは格別である。
お茶を頂き、熱と血圧を測り、準備体操をしてから機械に乗って足や上肢の強化訓練をするのだが、一つ一つの場面でスタッフが体に触れて援助してくれる。日常の生活では一人で事故のないように気遣いながら動くことが多いので、この援助はなんとも心地よいのだ。
機械の訓練が終わるとベッドで足腰のマッサージを受ける。もう忘れていた他人からの足腰への思いやりである。
いったいこんな訓練でどれだけ筋力の維持あるいは向上が期待できるかはわからないが体に関心を向けてくださる方がいるという時間をもてるだけでも貴重なことだ。

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