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2017年4月

2017年4月29日 (土)

復活節の祈り

ご在天の父なる神さま。

今朝、こうして兄弟姉妹と共にあなたの家に招かれましたことに心から感謝致します。

神さま、私たちは今、あなたの御子のご復活に感謝する復活節の中を歩んでいます。

主は死んで、葬られた後、復活なされ、悲しみの中にいる弟子たち、逃げ去った弟子の許に御自らそのお体をお示しになられました。

今、私たちのところにもあなたが共におられることを心から信じることができますように。その手の釘の跡や脇腹にある穴を確かめることなく、あなたの臨在を信じる私たちでありますように。

そして、子どもが親を疑うことなく、無心に欲しいものをねだり、手に入れるまで求め続けるように私たちもあなたに信頼し、祈り求める者とならせてください。

今から疋田先生の口を通して活ける言葉をいただきます。

どうぞここにおられない友の上にも同じ恵みがありますように。

全国各地にある教会の平和を求める祈りがあなたの許に届き、あなたの平和が地上にも実現されますように。

この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン

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2017年4月25日 (火)

条件付けられて

ある刺激が与えられてそれに反応した時、心地よい報酬がもらえると、生物はその刺激に自然と同じ反応を返していくようになる。すなわち条件付けが成立するのだ。
これから紹介する話は実はこんな固い説明が必要な話ではない。
私は肝臓の機能が落ちているので毎食後スティックに入った薬を服用している。もう5年は超えているだろう。スティックを力のなくなった指でなんとか開き、上を向いて飲み込む動作を何年もやっているというわけである。
さて、先日何か飲みたくなった。インスタントコーヒー、緑茶、リンゴジュース、どれもいやだ。ふとコーヒースティックが目についた。よし、今まで飲んだことがないこれにしようと決めた。早速、ハサミを使ってスティックを破った。その時、私の手はその中身をカップに持っていかなかったのだった。なんと驚くことに口へと運んだのだ。条件付けが起こったのである。
慌てて洗面所に走り、吐き出し、何度も口を洗浄したが、洗面台は赤茶けた色を簡単には消してくれなかった。
笑えない出来事の顛末である。

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2017年4月24日 (月)

子どものようになる

聖書のマタイによる福音書18章にはこうある。
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
聖書は前後関係を考えながら読まねばならないから、この箇所にはこの箇所の特有の意味があるだろう。
だからこれから記す解釈は私個人の置かれた場所からのものといっていい。
子どもは欲しいものがあれば親に遠慮なしに要求する。ひと目構わす地べたに座り込んでも欲しいものを賣る店の前を去ろうとはしない。翻って私たちは己の願いをかくまで神さまに祈ることがあろうか。祈りの課題を設けても、祈り終わると、それでよしとはしていないだろうか。
子どもがそうまでして親に訴えるのは親への信頼が強いからだといえる。親は豊かで、願えば叶えられる力の持ち主だと信じているのである。
だから、大人の私たちが熱心に神さまに祈らないのは神さまの心の大きさ、その慈悲、愛の深さを心底信じていないとも考えられる。
聖書を毎朝読み、祈り、礼拝を捧げる信仰生活を送っている私であるが、今朝は「子どものように」というイエスの一言に信じる心のありようを省みる必要を思わされることとなった。

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2017年4月 6日 (木)

机の花

書斎の机の上に花が飾られた。赤い花弁が鮮やかなベコニアであろうか。これは誕生日の祝に駆けつけてくれた三男が持ってきた花の一鉢である。昨夜長男がかごに入った鉢を分けてその一つを書斎に持ってきたのである。お陰でニュートラルな書斎の雰囲気が少し潤ったような気がする。
長男は黙っていろいろと気を遣ってくれている。例えば、勤めに出かける前、それまで4チャンネルだったテレビを1チャンネルに変えていくのだ。その上、字幕の設定まですることさえある。8時から始まるテレビ小説を私が毎日観ていることをしっているし、その中で交わされる会話が聞き取りにくい耳に私が最近なってきたことも分かってのことである。
妻がいなくなって生活の中で行うこまごまとしたことに他人から気遣ってもらう機会が少なくなっている現在、こうした小さな配慮は嬉しいものである。
ついでにもう一つの配慮を挙げてみる。それは私の朝の楽しみの一つである新聞読みへの気遣いである。私は小一時間食事の後で新聞を読むのだが、その新聞は私が居間に行く前にポストから長男夫婦のどちらかが取ってきてテーブルに載せておいてくれる。その時、長男だった場合は折込チラシを抜き取って新聞だけを置いてくれるのである。小さな心遣いであるが私はそれにホッと心が和んでその後の時を過すことが出来るのである。

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