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2017年3月

2017年3月31日 (金)

牧師送別の祈り

ご在天の父なる神さま。あなたに祈りを捧げる時を与えられましたことに感謝致します。 あなたがあなたのご意思によって○野牧師を十九年の長きにわたってこのH教会であなたの御用に当たらせてくださったことに感謝を捧げます。

 先生は私たちが愛する、大切な人をあなたの許に送らねばならない時でさえ、この礼拝は人を崇める時ではありませんと無骨にも決まって式の冒頭におっしゃいましいた。 ですから、私たちも先生を讃えることはしません。

 先生の口を通していただいたあなたの御言葉に心からの賛美を捧げます。

 あなたは先生の口を用いて救いの歴史を教えて下さいました。

 苦役に弱り果てて、生きる望みを失ったエジプトの民があなたに導かれ、荒野を歩む時に、あるときは水を与え、あるときはマナを降らせて民を導いたことを、私たちは自分の救いと重ねて聞く事の幸いに与りました。 週ごとに与えられるその恵みよって毎日の困難な旅をあなたの所へ向かって歩むことができたのです。

 地区集会では先日ヨシュア記を先生の解き明かしによって最後の章を学び終えました。そこではヨシュアが民を約束のイスラエルの地に導いて後、あなたの許に還ったことを教えられました。

 H教会での限りある奉仕を終えて、新しい生活に入る○野先生をこれからも支え、導いてください。どうぞ、先生のご家庭があなたによって守られますように。 この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

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2017年3月11日 (土)

新たな教会のための祈り

私たちの主なる天の神様、あなたの聖名を賛美いたします。

年度末のこの朝、こうして今日もあなたにある兄弟姉妹の皆様と共にあなたの臨みたもうこの御堂に招いてくださり心から感謝致します。

あなたは世々その慈愛の御心をもって私たちを導き、励まし、守ってくださいました。

今、私たちの教会は新しい歩みを始めようとしております。この時、心からの祈りを捧げます。

神様、教会に御言葉を豊かに注いでください。

集う者が御言葉に喜んで耳を傾けるようにお導きください。心を合わせて御言葉を聞く集いにしてください。
 御言葉に生かされ、皆で助け合い、支え合う教会にしてください。
 いただいた喜びをひろく伝える教会にしてください。

今日は午後新しい牧者を招聘するための臨時教会総会が予定されています。その時があなたによって祝され、導かれますように。

神様、今日ここに集えない多くの兄弟姉妹も共に祈りの輪の中に加えてくださいますように。

この祈り、十字架の主、イエス・キリストのお名前を通して身元に捧げます。  アーメ


この祈りは先日の礼拝で司会者の私が祈った祈りである。

この3月末で現在の牧者E先生が引退し、4月からは新たな牧者を迎えようとしている今の教会。

私が20年前にこの教会に東京の教会から転会して来たときは、教会暦に沿った行事が催され、それへの参加者も多くいた。新年の餅つきには会堂の外で杵を振り上げ、会員の一人が運んできた臼をご婦人たちが取り囲んで餅を返したりしたものだ。

秋に行われるバザーには近隣の常連客が押しかけて賑やかであった。

教会学校もあったのでその日には大人の礼拝より早く教会に行き、私も定期的に説教奉仕をさせてもらっていた。

さらに、婦人会、壮年会が月一度の例会を持ち、礼拝後の教会がすぐに空になることはなかったのだった。

また、教会では地区集会なるものを持って、市内とその周辺で聖書の学びと祈りの会を月に一度第3週の朝守っていた。その一つである我が家での集会には多い時には7、8名の方が参加していたと記憶する。

 

ところが、餅つきの行事が廃止され、バザーは「教会フェスティバル」となって数年続いたが今年から取りやめになったし、婦人会と壮年会が統合して出来た「聖書と交わりの会」の出席者も固定されてしまった。

教会学校に集う子どもはここ数年全くない。

地区集会は我が家だけとなり、3、4名の参加者である。

最愛の妻はこの移り変わりの途上において召されていった。それは敬愛するT兄においてもそうであった。また、年老いて礼拝参加ができなくなっている方も多い。

牧者と会員の関係にも何度か障害が生じたことは確かであった。

 

しかし、神様の建てられた教会は依然としてこの地にあり続ける。そして、礼拝は聖日ごとに一日も絶えることなく神様に捧げられている。

先の祈りはこうした中での祈りである。新たな牧者を迎えるに当たっての教会の祈り、この世的に言えば教会の目標とでも言えるものだ。

 

教会は神様の救いの御心が豊かに示される、伝えられる世界である。その世界はあらかじめ神様によって選ばれた者の共同体である。

それ故、語られる言葉は聖書に保存されている神の言葉の忠実な伝達でなくてはならない。また、神様が導いた歴史を証しするものでなくてはならない。

人間の業の賛美や人間を聖化する言葉は礼拝には馴染まないだろう。

その言葉を私たちは顔を上げて待ち臨み、耳、目、体全体を用いて受け容れ、感謝して受け容れたいと思う。アーメンと言いつつ喜びたいと願う。

御心は言語で語られだけではない。聖餐というパンと葡萄酒(葡萄液)を用いた儀式を通しても与えられる。イエスが十字架に架かって割かれた体、流された血潮、それが今も十字架に苦しみたもう姿として、具体性を持って示されるのだ。身体を生きる私たちに食物という形で示される主の愛と苦しみ、これに聖餐を通して与りたいと思う。

先に教会は選ばれた者の共同体であると言った。神はいつも私たちに「あなたがた」と呼びかけてくださっている。エジプトから「民」として導き出されたように私たちは家族として神に愛されているのである。だから、教会は説教を通して伝えられる言葉をそこに集う一人ひとりが、皆十分に聞くことが出来るようにお互いが心を用いねばならないだろう。知恵のある者も、そうでない者も、年を重ねた者も、若い者も、また、体に不自由を持つ者もそうでない者も、一緒に主の前に出ることの出来る教会でありたい。

そうした教会には豊かな、愛に満ちた交わりが生まれるに違いない。笑顔が満ち、温かな挨拶が飛び交い、一人ひとりが必要とされる共同体が誕生するだろう。

人は喜びが体内に満ちるとそれを表現したいと望むものである。それは教会の行事の伝道集会として形を成すかもしれない。教会案内のチラシとして配布されるかもしれない。あるいはまた、フェスティバルという形をとって周囲の人たちと喜びの饗宴を共にすることもあろう。

 

神様、どうぞ御言葉を教会に響かせてください。感謝して御言葉を受け入れる私たちに生れ代わらせてください。喜びにあふれる教会にしてください。証しする教会にしてください。

主の御名によって祈ります。

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