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2016年12月 2日 (金)

FALL(死)ということ

「葉っぱのフレディ」という絵本があります。アメリカの哲学者レオ・バスカーリア博士が書いた絵本です。一〇年ほど前に日本でも有名になって、森繁久彌の朗読や、日野原重明演出のミュージカ劇になったりもしました。
フレディは一枚の葉っぱです。絵本には木の名前は書いてありません。絵から判断するとフレディはどうも楓らしい。葉の先が五つに分かれているのです。
 フレディは梢で多くの仲間と楽しく毎日を過しました。春風に誘われて踊ったり、夕立に体を洗ってもらったり、お月さまの銀色の光を浴びたりして。だから、フレディは「葉っぱに生れてよかったな」と喜んでいました。
 ですが、季節は移って寒い風が吹く頃になると、やがて友達は枯れて散っていきました。フレディは深い悲しみを抱きます。その時、友達の一人のダニエルが「変化しないものはひとつもないんだよ。変化するって自然なことなんだ。死ぬということも変わることの一つなんだよ」と教えるのでした。
 そして、最後、フレディも初雪の朝、空中をしばらく舞って、そっと地面に降りていきました。こんな物語です。 

先日東京にいる40年間のほとんどを過ごした教会の教会会報が送られてきました。見るとこの会報の中にT・Kさんが「『葉っぱのフレディ』The Fall of Freddie the Leaf」と名付けた小文を書いていました。

このT・Kさんは私が大学生の終わり頃まだ多分高校生だったと思います。彼は大学には一度で合格せず浪人したのでしたが、その間も熱心に教会に来て、私たちの仲間と触れ合って来たと記憶しています。土地柄、大学生や卒業間もなくの若者が大勢いる教会でしたが、その者たちは彼を「T・K君」と呼んで何かと声掛けをしていたのではなかったかと今に思います。
 時は過ぎ、T・Kさんがこうしてまだ教会の一員として信仰生活をしているのに反し、当時大学生だった仲間達や若者はその多くが今では天へと旅立っていってしまいました。司法試験合格を目指したSさんはその願いは叶わず埼玉県職員として勤め上げ、Tさんは大手企業の役職を終えた後、伝道所を立ち上げ伝道の道を進んだ後神様に召されました。
 いえ、年長の仲間だけではありません。T・Kさんと同年代の仲間、Yさん、Sさんももう教会を去って、天にいるのです。青年会で、あるいはまた教会学校で一緒に活動し、心を許しあった仲間たちはもうこの教会にはT・Kさんくらいになってしまいました。
 そのT・Kさんですが、浪人生活をした後、見事大学進学をなし、得意の英語力を用いて英文学を専攻し、やがてN大学の教授となりました。「ナルニア国物語」の著者C・Sルイスとかいう学者の研究者としても知られ、その分野ではどうやら権威者であるとの評を聞いたこともあります。
 その彼が「葉っぱのフレディ」を原書で彼流に読んでこの度、教会報に小文を執筆したわけです。送られてきたこの文章を読んで、ここには見過ごすことのできない彼らしい読みがあることに私は驚きました。
 その一つはThe Fallの訳が日本版では落ちているという彼の指摘です。T・Kさんは「邦訳者は「『落下』という葉っぱが落ちることを『死』と解釈している点では迷いがありませんが、子どもの読者を恐れさせてはいけないと確信してFallの言葉を捨て去ったのでしょう。だが、葉っぱの『落下』は自然界の事実です。」と書いています。確かに日本版の「葉っぱのフレディ」には「落下」はなく、「いのちの旅」との言葉が付されているだけです。
 次に私が刮目させられたのは葉っぱの名前に意味があるというT・Kさんの指摘です。枝先の葉っぱにはフレディの隣のアルフレッド、右側のベン、直ぐ上のクレア、物知りのダニエルなどと名前があるのですが、T・Kさんはこの名前はA、B、C、Dとアルファベット順になっている、そして、EがなくてフレディのFとなっていると言い、そして、こう締めくくっています。「さて、気になるのはEで始まる葉っぱが登場しないことです。このことはとくに意味があるわけではないという解釈も可能ですが、私は本書が「落下」「即―死」を問題にしていることに注目すると、葉っぱのEの不在は生まれることのなかった葉っぱについてそれとなく暗示していると解釈します。そのように解読すると、『葉っぱのフレディの落下』は生きることを許された者と生きることを中断された者の物語であることが立ち現れてくるのです。」
 名前がアルファベット順になっている、なるほど、そうです。いつも夢をみているようにワンテンポ遅れて笑顔で発言をするT・Kさんらしい気づきです。Eの名の葉が登場いないことに思いを馳せて「生きることを中断された者」に心を向ける姿勢に至っては彼独自の世界の表明としか言いようがありません。
 これは、いつか出生前診断について神と人の心を思いやった文章をある雑誌に書いた私には無視できないT・Kさんの言葉でした。

私はもうじき80歳を迎えます。体も大分弱ってきました。子どもの頃から抱えている身体の障害もより重くなり、毎日を痛みを友として生きる状態です。その上、先程書きましたように友の多くがFALLし、今は天上におります。
 そうした私に図らずも人生の多くの時を生きた教会から会報が届き、T・KさんからFALLの積極的、肯定な意味を浮かび上がらせていただいたことは喜びという他ありません。 

よい便りに触れた一日でした。

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