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2016年4月20日 (水)

日常のこと 救いのこと

朝日が一杯に差し込む居間からまだひんやりする書斎に移動してきた。テレビではMLBの中継の真っ最中だったのだが、それを見続けてのんびりすることができない性分なのだからしかたない。

聖書を読む前に熊本出身のかつての同僚S氏に故郷の様子を聞いてみたくなって電話した。さほどの被害もなかったとのことでその話題はおしまいになった。それよりも職場で共に過ごした仲間が老齢化にともなって弱さを抱えていることに多くの時間を使って話をしてしまった。
Uさんが膀胱がんである由。今日の電話の相手も透析を受けている方ではあるが、そして沢山の児童文学書を世に出している方であるが、Uさんも昨年暮までにはなにがしら上梓するようなことをおっしゃっていたのに病でそれが実現しなかったらしい。
私からはO女史が最近は長く電話で近況を話すことをできなくなっていることを伝えた。とは言え、悲壮感を持って会話を続けたわけではない。S氏にはその体のどこかにユーモアが秘められていて、エヘッへと語尾には他人を安堵させるものが付いているのである。
そんな訳で一時嬉しい時間を過すことが出来たのだった。

さて、これからイザヤ書を読むことにする。今日のところはイスラエルの民がバビロン捕囚を終えてユダの地に帰還する時代である。一万人が捕囚の目に合い、今は四万人になっている民がバビロン帝国が滅びたためにユダに帰るのである。本来なら異教の地での苦しみから解放された喜びを持って勇んで帰国の途につくはずである。ところが、聖書はそう伝えていない。捕囚の地とはいえ、50年の歳月が過ぎるとそこで財産が生じ、生活が確立される。それを捨て去って帰ることが幸せなのかとのためらい、いや、抵抗が民の中に生じたのだ。
神の支配する国に帰る、神の声に従う、これを今畑がありますから、家族が結婚しますから、牛の世話をしなければなりませんから、と言って断る、それと同様な心が捕囚の民に生まれていたのである。

もう11時になった。こうした民を主が忍耐と愛を持って導く姿を、日常の私と重ねつつイザヤ書を開く。

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