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2015年4月

2015年4月27日 (月)

名前で呼んでみたら・・・

4月2日は誕生日だった。その日のフェイスブックを私は「78歳になりました。定年を迎えて18年、妻和子さんと別れて7年になりますが今こうして生活を保たれているのは皆様はじめ多くの方々とのお交わりのお陰です。」と書くことで多くの方からのお祝いのメッセージに応えた。
振り返ってみると、妻のことを和子さんと呼ぶのはここ数回のことである。いわば新呼称なのである。そして、この呼称は新しい和子さん像を私の中に誕生させていることに気づくのだった。

古い写真を整理しながら時々和子さんの若い、まだ結婚前の姿を見つめていると和子さんがH家の一人の大事な娘として成長していたことを知る。大人の女性として、彼女独自の幼い時からの歴史を持って、そこに存在していたことの重さを感じるのだ。

その人が私という一人の男性と出逢って共に生活をするようになった。その動機は私の足として生きたいとのことだったが、その願いどおりに和子さんは全ての力を私に注いでくれた。いや、私はそう捉えていた。妻という名称もそんな男の一方的理解の所産なのかも知れない。

だが、きっと彼女には彼女の独立した感じ方や喜びがあって一人の人間として、一つの肉体を持った人としての世界があったに違いないのだ。その人が傍にいて精力的に私に関わってくれただけなのかもしれないのである。

そうならば、もっと違う呼び名、その独立性を重んじた呼称を使わねばならない。和子さんという呼び方はそれにふさわしいという気がする。

和子さん、どう思いますか?

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2015年4月21日 (火)

困難の中にある救い

エレミヤ書を日課として読んで6ヶ月になる。今日はエレミヤがエジプトで死ぬことが記されている43章。もうじきエレミヤ書も終わるところだ。
読んで来てつくづく思うのはいかに人間が人間の力に頼り、神の言葉を都合よく利用しようとしてきたかということである。
今日の箇所もユダの指導者たちがバビロニアの恐怖から逃れるためにエジプト行きを望み、エレミヤにその望み通りの預言を語って欲しかったにも拘らず、エレミヤがユダに留まるように告げたところ、彼を偽予言者と罵ったことを語っている。
結局この人々はエレミヤの言葉に聞かず、エジプトに行くのだが、攻め寄せたバビロニア軍に滅ぼされてしまう。
それに引き換え、バビロン虜囚にあった人たちは神のいることを信じ、神に希望を託して生きる中で、創世記等の書物を書き、やがてイエスの救いにつながっていったのだ。
神は困難の中に共にいたもうことを知らされたエレミヤ書研究であった。

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2015年4月16日 (木)

不信の社会

「五日市警察の〇〇ですが・・・」と電話がかかってきたのは夜も遅くなってだった。「自転車が放置されていると住民から知らせがあり、調べたら御宅様の△△さんの自転車のようですがお心当たりはありませんか?」とその声の持ち主は続けた。
△△は紛れも無く内の孫娘である。しかも、彼女は自転車を武蔵境駅近くでテニスコートに行く手段に使っている。私はびっくりしてその警察官にその辺の事情を話し、では私からそちらに電話をかけるように孫に伝えますと告げた。
すると警察官は、番号を教えてくださればこちらから電話をします、と言うので私は孫の携帯の番号を教えてしまった。
だが、本当に良かったのだろうかと心配が募ってきた。
両親が帰宅した時、私はつい教えてしまったが本当に相手が警察官だったのかどうか確認をしなかったから△△ちゃんには十分注意して対応するように伝えてね、と念を押したのだった。
ところがである。両親は△△ちゃんが自転車を盗まれたことはもう知っていたのだった。だから、それが見つかったことを喜ぶ始末であった。私が警察官だと信じた根拠の一つである持ち主を割り出す能力さえ、彼らに言わせれば防犯登録してあるから電話番号など簡単に分かるのだと言う。

近く△△ちゃんは警察に自転車を引取に行くそうだ。

警察官と名乗る人を信じて事件に巻き込まれることが頻発する世の中、私の心配はあながち間違っていたとは言えまい。そう、自分に言い聞かせているのだが・・・。

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2015年4月12日 (日)

十字架の祈り

恵みに富み給う天の父なる神様。あなたはこの一週間、心挫けそうな時も、不信の時にも、御手をもって私たちを支え、励まし、そして、今朝またこうしてあなたの前に呼び出して下さいました。ありがとうございました。

どうぞこれから始まる礼拝があなたへの賛美と感謝の時となりますように、そして、あなたの御心に触れ、力をいただく時となりますように。

神様、過ぐる聖日にはあなたの御子、主イエスの復活に与ることができましたことを心から感謝いたします。しかし、父なる神様、御子主が私たちの不信仰故に十字架の上に死なれたのに、人は十字架から遠ざかり、信じようとしなかったことも知りました。

今日はその私たちの前にあなたが復活なされた姿を現してくださり、私たちの目を開いてくださる日です。どうぞその出来事をそれぞれが喜びのうちに受け入れる時となりますように。

 この喜びの礼拝に集い得ない友の上にもあなたが臨んで、その心に、体に復活の喜びをお与え下さい。

 これからあなたが用意されたメッセージを証しする先生に力が与えられますように。

 この祈り、感謝、願いを私たちの贖い主イエス・キリストのお名前を通してみ前に献げます。  アーメン

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