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2015年1月

2015年1月15日 (木)

さんと呼ぶ人

年賀状の返事を昨日になってくださった方がいる。職場で数年一緒に過ごした方である。同じ大学の先輩だが、少し現場にいてその後大学の教員として出て行かれた。
この方との思い出で強く印象に残っているのは私が学校近くの小さな部屋に住んでいる時のことだ。ある日強い台風が来て、川が氾濫を起こしたのだった。私は職場から帰ることも出来ずその夜は学校の保健室かどこかに寝たのだが、彼が部屋を見てきてあげるね、と言って水かさが増した中を出て行った。
記憶が定かではないが彼は畳を上げておいたよ、と言って帰ってきたようだった。

賀状によると今御殿場で障害幼児の施設に勤務しているとのこと。見掛けは元気ですがつかれやすくなりましたと、なよなよとした文字で書き記していた。そして、「生きることは大切なこと、久さんがんばって神さまに仕えてください、祈っています」と続けて下さった。

久さん 、とさん付けで呼ばれるのはいつ以来のことだろう。恩師Y先生が私の個人通信を読んだ後の感想にいつも、久さんまた良い便りをありがとうございました、と応えて下さった時以来かも知れない。

先輩Kさん、生きることを大切にして神様に仕えてこれからも毎日を送ります。

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2015年1月14日 (水)

神に捨てられたと思う時

エレミヤは神の言葉を取り次いだ故に民から非難され、排斥され、苦しみに会う。預言どおり裁きが来れば、今度は「自分たちを呪ったからこうなった」と民はエレミヤを恨む。

こうして彼は前途に希望を失い、自分を否定し、神に裏切られたと神に絶望する。
15:17 わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく/御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。
15:18 なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。

だが、この後神の言葉は反転する。
15:19 それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら/わたしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず/熟慮して語るなら/わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。

ここを篠崎キリスト教会の川口牧師は「神に捨てられたと思う時、神は最も近くいてくださる」と説いている。

絶望の中に神はいたもう。十字架のイエスも神の御心に中にいたのだ。これは私たちの日常においても真実であろう。

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2015年1月 7日 (水)

年賀状

今年の年賀状には新年とクリスマスの喜びの挨拶に添えてこんな文章を付けた。

日曜日の午前九時半。教会の軽自動車が玄関前に止まる。私は電動車いすを助手席に近づけ後ろ向きになる。自分の力では乗り込めなくなった体を牧師さんに内部からベルトを持って引っ張り挙げてもらうためだ。
教会には十五分程で着く。
礼拝は十時三十分から。私の席は最後部の窓際。牧師さんがストーブを足元に用意してくださり、TさんやHさんは私の浮腫んで重い足を持ち上げて車いすの前に用意した台の上に乗せてくれる。司会の役のない日はこうして足を伸ばした姿勢で私は礼拝に与るのだ。
礼拝では神様の御声を聞き、皆で神を賛美し、祈を合わせる。生活動作がきつくなっている今、私はこの時にいただく慰めと勇気に日常の日々を生かされていると言っていい。
礼拝後ホールでお茶とお菓子の交わりの時を過ごしてまた牧師さんと家に帰る。恵みに満ちた週に一度の外出の時である。

出した枚数は100枚である。これは例年より50枚ほど少ない。形式的に年に一度の挨拶をすることを控えようと決めたのである。
今日七草粥の日を迎えていただいた枚数を数えると100を少々上回っているようだ。返事を書かない方には申し訳ないが決心してこのまま収めようと思う。

改めて一枚一枚読んでみると皆さん、それぞれに一生懸命生きておられる。また、そんな毎日の様子が分かる葉書が嬉しい。
公務員官舎で家族ごとお交わりをいただいた方、長い教員生活で知り合った保護者の皆さん、「教え子」、教育実習生、また、東京の教会の友、遠くは学生時代の友人。もちろん職場の友もその中にいる。

この皆さんの息を肩に感じながら今年を私も生きていくことにしよう。

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