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2014年12月

2014年12月31日 (水)

老人力に安心がある

赤瀬川原平の「老人力」はすこぶる面白い。是非老人には読んでもらいたいのだが、やっかいなことに版元でも在庫なしとのこと。
私は昨日楽天のコボストアで購入し読み始めた。まだ13%しか読み終わっていないが赤瀬川氏の軽妙な語り口に惚れ込んでいる。
それは昨日書いた記事を訂正、あるいは撤回しなければならない程のパワーをここからいただいたからである。
昨日は老人力を培って行く人生を主張した感があるが、赤瀬川氏の言葉から私たち老人は既に老人力を持っており、それは何物にも替えがたい大事な財産であることを教わった所以である。
老人は長い長い人生においてそれはそれは多くの体験をし、その都度笑い、悲嘆の淵に沈み、また自慢をしてきた。病気あり、結婚あり、離別あり、の人生。そして、今その中から得た結果として、忘れっぽく、あーどっこいしょと言わねば椅子に座れない体になり、ゆっくりでなければ物事の処理ができなくなっている。このことこそ若い者にはない老人力だと赤瀬川氏は悠然と説く。
こう書いてきたが老人力はもっともっと愉快で、発散的で、艷やかなものだ。それは赤瀬川氏の著書でしか味わえない。
そんな訳で昨日の記事をそのままお読みいただくのを少し待っていただきたいとお願いする。

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2014年12月13日 (土)

弱さこそ力

今朝も篠崎キリスト教会のhpから聖書に学んだ。明日の教会での「聖書に親しむ会」の準備のためである。
教会では第二聖日聖書の輪読をしている。今読んでいるのはミカ書である。
今朝出会ったよいメッセージを以下にコピーアンドペーストさせてもらう。
-ミカ4:4-8「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと万軍の主の口が語られた。どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む。その日が来れば、と主は言われる。私は足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。私は彼らを災いに遭わせた。しかし、私は足の萎えた者を、残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに主が彼らの上に王となられる。羊の群れを見張る塔よ、娘シオンの砦よ、かつてあった主権が、娘エルサレムの王権が、お前のもとに再び返って来る」。
・ここにおいては主が「良い羊飼い」として描かれている。良い羊飼いは人間的に見てもう何の望みもないとされる「足の萎えた者」、「追いやられた者」を、「残れる者」として集め、新しい国の土台にする。良い羊飼いはイエスに継承された言葉であり(ヨハネ10章)、「弱い者によって神の国が建設される」とはパウロに継承された言葉である。新約は旧約の土台の上に立てられている。」(下線は私が付した)

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2014年12月11日 (木)

長崎の旅(3) 「沈黙」の評価

若松英輔氏に導かれて遠藤周作著「沈黙」を読むところまで来てしまった。そして、読了したのだがどうも後味が悪い。ロドリゴやキチジローを始めとする司祭・信者に襲いかかった弾圧、拷問には言葉を失うのだが、遠藤周作の信仰をどう理解したらいいのか、それがこの「沈黙」にいかに投影しているのかがわからないのだ。
今、ネットで得た「『沈黙』論」を若松氏のそれに併せて読んでいる。詳細は面倒だからここでは論じないが、いずれの「『沈黙』論」も執筆当時、遠藤周作が神の恩寵に如何に与っていたかには触れていない。
それはキリスト者でない研究者が神の愛を体験することなく、「沈黙」を単なる人間の文学として論じているからだろう。私は遠藤にもその雰囲気を感ぜざるを得ない。
イエスの十字架に生かされ、励ましをいただきながら生きる評論家の「『沈黙』論」を読みたいものだ。

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2014年12月 6日 (土)

涙よ、尊き涙よ

 おお、悲みよ。吾れ等にふりかかりし寂しさよ、今にして私はその意味を解き得たのである。おお、悲みよ、汝がなかったら、こうも私は妹を想わないであろう。愛を想い、生命を想わないであろう。悲みに於いて妹に逢い得るならば、せめても私は悲みを傍らに近く呼ぼう。悲みこそ愛の絆である。おお、死の悲哀よ、汝よりより強く生命の愛を吾に燃やすものが何処にあろう。悲みのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる。涙よ,尊き涙よ、吾をして妹に再び逢わしむるものは御身の力である。(「妹の死」1921 柳宗悦)

 今朝出会いし慰めのことば。(若松英輔著「死者との対話」(2012 トランスビュー)53頁から)

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2014年12月 2日 (火)

ヨシュア記の恵み

ヨシュア記を読み終えた。今朝は24章。旧約聖書に秘められた救いの慰めに触れられたことに喜びを感じている。
その13節。「わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている。」
私たちは主に生かされているのだ。生きることは恵みなのだと分かる。

また、信仰はほかならぬ自分の救いに関わることだとヨシュア記は諭す。
15「 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

旧約聖書には度重なる神への背きの姿も描かれている。その結果、砕きとしてバビロン軍によるエルサレム神殿の破壊、民の捕囚が来たと篠崎キリスト教会のホームページでは言う。しかし、その時に合わせてエレミヤに新しい契約の約束が与えられた。31:31「『 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る』、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる」。
エレミヤ書31:33「 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
ホームページからの言葉。「この新しい契約がイエスの十字架を通して実現する。変えることの出来なかった人の心が十字架を通して変えられる。古い契約は動物の犠牲の血で書かれた(出エジプト記24:8)。新約はイエスの血で書かれた契約だ。
ルカによる福音書22:19 「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」

私は読み終え、思わずアーメンと唱えた。この救いの主がもうじき誕生する。それを待ちたい。

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