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2014年11月17日 (月)

存在する死者

聖書以外に読む意欲をなくしていた私だったが最近読むべき書物があることを発見し喜んでいる。
その契機は高橋源一郎が朝日新聞で触れていた雑誌「文藝」だった。今回文藝賞をとった「死にたくなったら電話して」という想像だにしない若者の世界を描いた小説を読み終わって、ふと巻末にある若松英輔の「愛(かな)しみの哲学」に触れた時死者との関わりに新たな生命を見た思いがしたのだ。

この論考は多様な意味において新たな興奮を惹起したのだがその一節に遠藤周作の執筆の姿勢に触れてこう記していた。
「彼の文学が大きく飛躍するとき、そこに起こっているのは死者との交わりであるように思われる。彼は死者に向かって書いているのではない。書くとは、言葉をもって語ることのできない死者たちー生きている死者たちーとの協同の営みになったというのである。」

死者は生きているものがその人について書き、思い、描くとき最早死者ではなく共にある存在になる。そのことを筆者はイエスに従って死んだ殉教者や内村鑑三に及んで書き進めている。

今早速ネット通販で取り寄せた「切支丹の里」「沈黙」「内村鑑三を読む」「死者との対話」が机上に並んでいる。永遠の生命を信じる私たちは、信仰に生きた者たちとの共存を未来にではなく現在においてもう一度確認してみる幸いに与ることができそうだ。

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