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2014年9月

2014年9月27日 (土)

箱庭療法

ふと放送大学にチャンネルが回った時、そこでは箱庭療法について女性講師が笑顔で語っていた。懐かしくなってしばらく観ていると、講師がかつて箱庭療法を学んだ研究所の責任者がこの療法がどんなふうに進められるかを実際に見せる場面が出てきた。

箱庭療法は小さな箱のなかに砂があって、そこに玩具(家や動物、乗り物、木々など)を使って患者(クライエント)が自由に自分の世界を表現することを通して自分を見つめ、確かめ、拓いていく手法である。

私は現役最後の数年、学校で「箱庭遊び」という名目で養護教諭の先生の教えを受けながら研究し、また生徒たちと箱庭遊びを楽しんだ。

今朝の映像の中で、箱庭療法の始めは、まず砂に触ることから始まります、と言って目を閉じ、砂の感触を確かめ、その重さに触れている様子が映されているのを見て、ああ、私ももう一度やってみたいものだとつくづく感じたのだった。与えられているものに体ごと触れ、その質量感を感じ、お互いの存在を受け取る、そんな体験がもう一度欲しくなったのだ。

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2014年9月15日 (月)

病む友の存在

以前に比べて職場の友との電話での交わりが減少している。
以前とは病む友がまだ病院や施設におられた時のことだ。この一年の間に二人の親友を天に送った。一人はこの9月で一年の記念日を迎える。もう一人はそろそろ半年になるだろう。

二人共職場で多くの人たちと良い交わりをしていたのだが、それが契機になってもうお互いに退職後20年にもなろうというのに相変わらず私たちは何かというと連絡を取り合っていたのだった。私たちはというのはその二人を取り巻く職場時代の多くの友という意味である。

二人が病院におられた時には私は参加できなかったが、数人の仲間が彼を訪ね、病院から許可をとって彼を公園に連れだして素敵な一日を過ごしていた。そして、その様子を私には電話で教えてくれたものだ。

お互い年を重ねているからそうしょっちゅうは訪ねられないのだったがそんな時は電話で彼はどうしているだろうと話し合ったりもした。

私たちはそんな良い友を失って、もう心配の対象がいなくなってしまった。それと平行して電話の回数も少なくなったのだろう。

弱さを持った人はこうして多くの人を結ぶ核になることができるということを二人は教えてくれていたような気がする。

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2014年9月10日 (水)

お母さんが抱ける喜び

どこの国での話かは定かではない。今朝のNHKニュースで見た話である。
貧しい国では上肢を欠損して生まれた子どもが義手を作ることはなかなか出来ないという。義手製作所もないし、費用もかさむからだろう。
その子どもたちに救いの手が差し伸べられた。ボランティアの援助で(?)スリーディプリンターを使って反対の手同様の手が容易に作製できたのだ。子ども達はボールを握ったり、両手で持ち上げたりして手ができたことを喜んでいた。
私が心打たれたのはその中の少年の一人がお母さんを両手で抱けてうれしいと笑顔を見せたことだった。しっかり体を密着させて、まるごとお母さんを抱けるようになった、今までは抱かれるだけだったのに、今度は自分の愛をこちらから伝えられる、私は少年の心をそう解釈して、私まで嬉しくなった。

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2014年9月 5日 (金)

献金の準備

今日はまだ金曜日。だが、今しがた明後日の礼拝で献げる献金の準備をした。

献金と一口に言ってもその種類はいくつかある。教会の宣教活動に用いる「月定献金」、主に教会の建物の維持管理に用いられる「会堂維持献金」、引退した牧師の家族を支える献金、小規模の教会や伝道所を援助するための献金などだ。
この他、感謝献金と言ってクリスマスやイースター、誕生日献金など私たちクリスチャンは神へ献金を献げることが多い。

日本の教会は会員の高齢化が進み、会員が少人数化している。それに伴って献金額も減少気味である。日本キリスト教団に属する教会の場合、教会はその教会の会員の献じる献金で牧師の謝儀(報酬)、光熱水道費、宣教活動に要する費用をすべて賄っているから、献金の減少はどこの教会でも深刻な課題である。

だが、献金は私たち主を仰ぐ者の感謝の印である。イエスが十字架に付いてその身を神様に捧げたように、私たちも全てのものを神の御用に用いていただくようにしなければならない。その印が旧約の時代には羊や山羊だったが、新約の時代にはお金に代わったのだ。

私は献金を袋に入れる度に、その額が収入全体の1割を超えることを知りながら、そして時々預金が減っていくことを気にかけながら、神様が必要としておられることに応えられる喜びを感じるのだった。

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