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2014年3月

2014年3月20日 (木)

運転免許証更新せず

昭和37年8月7日と記載されているがこれは何年前のことだろう。数えるのも面倒なほど遠い夏だ。
だがこの日は私にとって貴重な日であったのは間違いない。府中市の運転試験場に小さなマツダクーペを持ち込んでコースを巡り、得た、免許であった。
以来、デートに、通勤に、子育てに、はたまた生活を支えるためにこの免許は私の後ろ盾になってくれ続けたのだ。
だが、妻が逝ってから急速に弱った私の体は運転を放棄せざるを得ないまでになってしまった。ステアリングを回転できないのだからもう致し方ない。
来月2日が誕生日である。規則によってその一ヶ月後には更新手続きをしないと失効することになる。
連れ添ってくれた友として大事に机の中に置いておこうと思う。

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2014年3月19日 (水)

我は今

一日の生活を終え、引き出しの中を覗いていた。古い手紙や生活の記録などが押し込まれている引き出しである。
昨日に限ったことではない。私は時々こうして過去やそこにいる人と懐かしい空間を作って遊ぶのである。
大分整理してしまったので手紙類も少なくなった。自ずと触れ合う人の数も減っている。

そうしている内に、ふと病院の予約表が目に留まったのだった。注視するとなんと昨日が泌尿器科の診察日ではないか。
そう気づいてみるとドアのカレンダーにもしっかり18日のところに「泌尿器」と朱書してある。

こんなことは初めてのことだ。忘れやすくなっているとは言え、ここまで注意散漫になったのであろうか。「呆け」が私を包んでいる。そんな不安感に襲われた。

引き出しの中で遊ぶ、もうそんなことを言っている場合ではなくなった。

少し大げさに書き過ぎたかもしれない。だが、こころ穏やかでないことは事実である。

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2014年3月 5日 (水)

書く喜び

Sさんが ゆりは と書いて、「先生、わかんない」と言う。私、「なんて書きたいんだっけ」。Sさん、「雪ふりました」。
私、「そうだね。そう言いながら書いて」。
 
ゆきふりました とSさんがノートに書いた。
私、「わあ!できたね。(両手でSさんの頭をなでる、二人の頭を付け合いながら喜ぶ。)
私、「じゃあ、次、なんて書く?」
Sさん、「車が見えません」。
私、「ようし。書いてみよう」。
 
くるまかみえません、と言いながらSさんは書いた。
私、「できるじゃないか」。
Sさん、「先生、うれしい?」。
私、「うれしいよ」。(先ほどと同じように頭を付けて喜び合う)
私、「次はなんて書くの?」
Sさん、「おかあさんが雪を取りました。」
私、「さあ、書けるかな」。
 
Sさん、おあかうおりました と書く。
Sさん、「先生、いい?」。
私、「あれ、おあかうおりました、だね」。
Sさん、泣き出す。
私、「Sさん、泣かないで。また、やればいいよ」。
 
私は□を5つ書きながら、「おかあさんが、だね」と言い□□□を書いて、「ゆきを」と言い、□□□□□を書いて、「とりました、だろう」、「さあ、やってみて。」と励ました。
するとSさんは私の書いたマスには関係なく、
 
おかあさんふきとまし と書いた。
私、「おかあさん、は出来たよ。いいよ。次はゆっくり言いながら言ったことを書いて」。
 
Sさん、ゆきお とりました と書く。
私、「ほうら、やっぱり出来たよ。」「それでいいんだね。」
Sさんと私は握手をして喜び合った。
Sさんは車いすに乗る中学部の少女だった。ここに紹介した授業は人の宝である文字を用いて表現することの喜びをSさんと私が共有したある日のスケッチである。
 
何故に今更ここに紹介したかと言えば、今日の新聞に埼玉県の高校入学試験国語の問題で記述式に回答する設問があって、その採点基準に原稿用紙の正確な使用法が含まれていたからである。
Sさんのこの日の指導で私も文字を埋めるべき□を書き、そこに書くことを期待したのだが、Sさんにとってはそれはどうでもよいことであった。
 
Sさんの喜びを共有した私も同じ思いに浸っていた。所詮、原稿用紙の使い方などは人の決めた便宜的な約束事に過ぎないのだ。

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2014年3月 2日 (日)

キタサンツバサ

一般の方にはキタサンツバサはなんだか見当がつかないだろう。これは競馬に出る馬の名である。
実は昨年亡くなったMさんが私に買うように頼んだ最後の馬がこのキタサンツバサだったのだ。そして、この馬が晴れやかな大井競馬場から今日は遠く佐賀競馬に移って出走していた。私はMさんの願いを聞くつもりで買ってみた。彼に少しでもつながっていたかったのである。結果は着外。
今日はMさんの「追悼文」をご紹介したい。

M先生の温もり
携帯電話が見知らぬ番号を受信したのは昨年の811日だった。いぶかりながら電話に出るとそれはあなたの甥御さんからで、あなたの入院の知らせだった。
直接電話ができない程に様態が悪いとは想像したくなかったが、それでも、お見舞いに行けない僕は、あなたが親しくしている何人かの友にだけは連絡しなければならない事態だと思った。誰でもよいとは考えなかった。なぜならあなたは晩年独りで病気や生活の重荷に耐えていたことを僕は知っていたからだった。
僕はほんの2,3名に連絡した。それはあなたが天に召された時も同じだ。大勢の方に知らせることをあなたが望むかどうか、いや迷惑になるかもしれないと危惧したのだった。
だが、この僕の認識は誤りだった。知らせはたちまちの内に広がり、入院先には思いがけない友が見舞っていたし、また、お別れの式にもそれは多くの仲間達が駆けつけたことからも知らされることになった。それほどにあなたは豊かに、強い交わりの根を生活の中で張り巡らせて生きておられたのだ。
振り返れば、その根は療護園の看護婦さんたちを始め、事務職の方々との交わり、学校の仲間との様々な活動の中でしっかりと強く、揺るぎないものになっていたのだろう。
そうだ。あなたは学校の中でいつもは聞き役に徹していたが、職場の平和が乱されそうな時には声をあげて見張りの役を引き受けてくれたことも僕は記憶している。組合用語を使い、相手を糾弾する姿勢をとるのではなく、しかし、良心と信念に基いて語るあなたの姿は美しかった。あなたはそうしてしっかりした太い根を教師仲間の中に張っていったのだ。
でもあなたの常態は音楽を愛し、人の温かさに触れ、未知なところへの好奇心に遊ぶところにあったのではないかと僕は思う。
夕方の体育館からはバレーボールに興じるPTAのお母さん方を交えて若い先生方の声や笑いが甲高く響いてきたものだが、その中にあなたが嬉々として指図する声も教官室にいた僕は聞いていた。しばらくすると、汗を拭き、顔を火照らせて「いやー、みんな、強い。もうだめ。」と言いながら満足そうな顔で一休みするために教官室に戻ってくるあなたに僕は年齢や教師―保護者という立場越えてつながる、皆に愛されているあなたを見たのだった。
この根は学校ばかりではなかったね。あなたは山谷にある教会のボランティアとしても働いた。そこは食事にも困る方々に弁当を提供する食堂だったが、僕があなたの活動の様子を尋ねても、「おばちゃん達と一緒に食事を渡すだけだよ」とあまり多くを語らなかった。でも僕は教会に連なる者の一人として、あなたが体の弱まりを抱きながら奉仕する姿に尊敬のこころを抱いていたのだ。
Mさん、あなたは目立たない樹だったが、その樹は広い長い確かな根を張って、様々なところで豊かに生きたのだったね。
もう、そろそろおしまいにしなければならないけど、最後にその根っ子の先にいた僕個人のことを書かせてもらうね。
あなたは同い年の1937年生まれ。僕より3年前に着任していた先輩だったのに僕はあなたを最も身近な人の一人と感じていた。こうしてお別れの辞を書くことを引き受けたのはあなたの最後の数年間に色濃くお付き合いさせてもらったという自負があるからなのだ。
山谷でのボランティアができなくなる程に体が弱ってからお互い体の不調を長時間電話で、包み隠さず打ち明けあったりして何度慰めあったことだろう。
そんな中で最後まであなたを支えたのは競馬だった。足を弱らせたら日常の生活できなくなるからと言って好きな馬券を買いに後楽園まで出かけることをあなたは止めなかった。穴馬券を見事に的中するあなたはここでも私の尊敬する友だった。
あなたは9月25日、神の元へと召され、見送りの式は9月30日、あなたにふさわしく大勢の友と、ご親族に見守られて執り行われた。その御身には沢山のお花と共に、楽譜、競馬新聞、黒のジャケットが添えられて。
Mさん、ありがとうございました。天国でもお馬さんと遊んでください。

 

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