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2014年1月15日 (水)

神の配慮

 先日「介護と自分」を書いた。それを読んだOさんが「砕かれし魂」と題して以下の感想をメールで寄せてくれた。

50年以上介護を受けて生きている。20代は母が46時中介護してくれた。

国立身障センター入所中は同室の障害のある仲間。着替えから入浴介助まですべてやってくれた。センター入所は身のまわりのことは自分でできることが条件だと後で聞いたが、よく入所できたと今もって不思議だ。でも22カ月暮らした。

こうして50年間いろいろな人の支え、介助、介護で生きてきた。

ホームヘルパさんには家庭奉仕員と呼ばれた時代からお世話になっている。

今は、知り合いの女性とその家族(母親)。五体不満足の乙武さんと比べることはできないが、彼より機能的にはできないことが多いではないかなと思っている。

「こうりゅう広場」の介護と自己を見ているうちに、車いす詩人・島崎光正氏から「砕けた魂」という聖書の箇所があることを聞いことを思いだした。

ある時期、ホームヘルパさんの訪問に合わせて生活している自分に気づいた。ホームヘルパさんのために生きているように考え、主体性のない自分が情けなかった。

そして、自分を取り戻すために、個人的に事業所に所属していない介助者を依頼した。

二人で一緒に暮らして自分の主体性を回復した。

でも生きていることは誰かの犠牲のもとに成り立っている。今同居している家族、デイサービスの職員、教会のメンバー、友人、知人、限りない見知らぬ人々、考えたらきりがない。

島崎さんには「受け身で生きなさい」と言われた。

すべては神様が配慮し備えてくれた助け人である。

感謝して受けている。

みんな優しく親切だ。神は愛なりと信じている。

 

以下はこのメールへの私の返信。 

よい文章をありがとうございました。

先日の小生の問へのお答えと理解して読ませていただきました。

介護を受けることは多様な人間同士の関係、更には神との関係が交じり合っていることを教えられました。

「でも生きていることは誰かの犠牲のもとに成り立っている。今同居している家族、デイサービスの職員、教会のメンバー、友人、知人、限りない見知らぬ人々、考えたらきりがない。」

ここは考えさせられる箇所でした。

私も妻に多くの犠牲を強いたという思いがあります。でも、妻が犠牲となっているという認識を持っていたかどうかわかりません。

「すべては神様が配慮し備えてくれた助け人である。感謝して受けている。みんな優しく親切だ。神は愛なりと信じている。」

そう言ってくださってありがとうございます。嬉しいです。

よい交わりに感謝します。

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