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2013年12月

2013年12月31日 (火)

介護と自分

今日は火曜日。入浴介護の日である。週に二度の介護入浴だがヘルパーさんとの連携もうまくなって、一時間の契約時間ではあるがいつも4、50分で終わるようになった。
お陰で体への負担はだいぶ軽減したのだが、一人で入浴していた時とは違う点もある。その一つは浴槽に浸かる回数が減ったことである。従来ならば浴槽で温まってから体を洗い、もう一度ゆっくり浸かるのが私のスタイルであった。これが今は先ず洗髪、体洗いをして後の浸かりとなった。今のような冬場、寒さを我慢しての援助を受けることになったのだがこれもやむをえまい。
もう一点はバスタブに体を沈める時間の短縮である。ヘルパーさんは「湯冷めしないようにゆっくり入ってくださいね」と言うのだが、そして私も慣れては来たのだが、やはり待っている人を気にしない訳にはいかない。
入浴の日は下着などにも若干の配慮が要ることも変化したことの一つと言えようか。

以上は一週間の内、2時間程度の介護を受ける身の言である。だが、ふと考える。四六時中介護を受けて生活している方はどんな思いで毎日を過ごしているのだろうかと。私が学校で関わった多くの子どもたちも常に親の世話になっていた。食事、外出、用便、就寝、これらに他人の手が常に入っていたのだ。入浴時間長短の比ではない気遣いがあったであろう。
そんな方々にとって援助者と自分の生活のバウンダリー、境目はしっかりつくのだろうか。自己のイメージはどうなるのだろう。
いや、ここまで抽象化しなくても良い。他人の声や動作とどう調和して毎日を生きておられるか聞きたいものである。

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2013年12月22日 (日)

神の愛が全てになる時

以前にも何度か紹介した北上市に住むOさんのメールをまた載せさせていただく。
今まで欠かさず教会への送迎をして下さった方が彼を介護できなくなったことを聞き、雪の中クリスマス礼拝に出席できるかどうか心配して送ったメールへの返事である。
私のそんな心配をよそに、彼は豊かな交流を周囲の人と持っていて、教会員宅のクリスマス祝会に行ったり、居酒屋で楽しんだりもして、その積極性には驚嘆するほかないのだが、その彼を支えたものは何なのかがよくわかるメールである。

今から50年前の寝たきりの生活を余儀なくしていた時「なぜ試練?」と何回か涙したことがあります。
私の今あるのは、その時の寝たきりの生活が力となっています。今は「寝たきりの10年間」が宝になっています。
要介護5、障害程度区分6でも居酒屋に出かけ仲間と焼酎、ハイボールに手を出しています。
試練を乗り越えた時、大きな神様の愛が働いているような気がします。私の力がゼロになった時、神様の愛は100になると信じています。
100パーセントの愛を受けるまで歩き続けたいと思っています。
明日はタクシーを予約しました。これから司会のお祈りの原稿を準備しいます。
良いクリスマスを!

100パーセントの愛を受けるまで、とは召される時までということだろう。
悲壮感もなくこう断言できる彼は強い。

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2013年12月19日 (木)

創世記完読 感謝

一日一章を読むことを喜びとしてきた創世記の読みが今朝完遂された。佐藤陽二先生の講解書に導かれての旅だったが、それは恵みに満ちた行程であった。
神のなさることは時々人間の思いを超えたものであったが、そこにこそ神の意図が隠され、深い愛が込められていることも知ることができた。
ヤコブの選び、ヨセフのエジプト行きなど神が想像しがたいご計画を持ってなされたことだったのだ。
50章を読み終わったわけであるが、その最後にはこうある。
「 ヨセフは兄弟たちに言った。『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。』」(24)
この力強いメッセージはなぜか私の今後の不安を払拭し、心を休ませてくれる。そうだ、神は必ず顧みてくださる方なのである。

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2013年12月17日 (火)

ひなりんごさんとの会話

ひなりんごさんという女性とブログを通じて交わっている。明るい方でその日常を伝える記事はいつも私の心を空高く遊ばせてくれるようである。
ブログの隅から彼女のブログに入ってくだされば直接お会いすることができるが、それが面倒な方のためにここに三日のこうりゅうを紹介しよう。

 「おはようございます。
今は不安が多いので、どうしてもマイナスなことが目についてしまって…
そうですよね。おなかchanのエールを感じ取って、もうちょっと!
がんばります。
chacchanさんにお聞きしたいことがあるのですが、こちらでおたずねしてもよいですか?
『神様は、その人がクリアできない壁は与えない』
=その人ががんばれるから、困難を与えるのだと、みなさん励ましてくださいます。
聖書の世界では、そのような文面があるのでしょうか?
ご面倒な質問、申し訳ないです」
 「新約聖書にコリントの信徒への手紙一というところがあります。その10章13節にこう書かれています。
『 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。』
これはパウロが書いた手紙の一節です。その背景には神様は一人ひとりを愛しているという信仰があるんです。
私もこの答えを書きながら力をもらいました。お尋ねくださってありがとう。」
 「こちらこそありがとうございます。
こんなに親身に、またお詳しく答えていただいて嬉しいです。
本来は新約聖書の中のお言葉なのですが、私はchacchanさんからのお言葉としてありがたくいただきたいと思います。またいろいろと教えてくださいね

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2013年12月12日 (木)

体も差し出して

創世記の読みもいよいよ終盤にさしかかった。一人で神と信仰の先達たちとの旅をしてきた感がある。その道中ではたくさんのいただきものをしながら。
今朝は48章を読んだのだが、47章が少々気になるのでそのことを書いてみたい。
47章はエジプトでも飢饉が極めて激しく、民が生死をさまよう状態だったことを記している。その時、ヨセフは家畜を彼らに連れてこさせそれと引き換えに食料を与えたという。しかし、やがて又エジプト人は困窮し、最後には食料と引き換えに土地も自分の体も差し出してファラオの奴隷になることを申し出たのだった。
やがてその願いが叶うと人々はヨセフに「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。ご主君のご好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます」と言ったと聖書は告げる。
銀、家畜、体と農地。彼らは持てるものを全て差し出した。しかし、それで死を招くことはなかった。いや、それによって彼らは救われたのだった。
私たちにはここまでは捧げ尽くすことはできない。自分の所有にしがみついて命を守ろうとしている。
私たちに代わって全てを捧げた方、それがまもなくやってこられるイエス・キリストである。旧約の信仰の実現する日、それがクリスマスなのだ。

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2013年12月 9日 (月)

人を思う

良い作品というのはそこで人に会うことができるものだろう。
例えばこんな作品である。

あらためて妻あるを知る根深汁
天におはす母にも見ゆる吊し柿

これは昨日の朝日新聞の俳壇にあった句である。
根深汁は特別な料理でも何でもないが、夫婦二人温かなネギの入った味噌汁を黙って飲んでいると、ああ妻がいてくれるからこそこうして安心して夕べが過ごせるんだなぁと思う。読者はここで作者にもその奥さんにも出会えるのである。
二句目。おはす、がなんともいい。人一倍母に面倒をかけた作者かもしれない。尊くて「いる」などとは言えないのだ。そのお母さんの目にも、柿が吊るされている平和な家の様子が自然に見えている。そう詠って喜んでいる作者。

妻、母、私には抜き差しならない人である。

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2013年12月 5日 (木)

秘密保護法案を憂うる

今日にも本法案が可決されるとマスコミは伝えている。どう見ても危険極まりない法律であるが映画人、学者、法律家その他国民多くが反対しているにもかかわらず、国会では至極当然な法案として可決しようとするこの動きを憂うる。
一番もどかしいのは一般国民は自らの反対意志を表明する場がないことだ。ジャーナリストや山田洋次さんのような著名人に頑張ってもおう。

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