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2013年11月 1日 (金)

聖餐に与る者

必要あって「聖餐 イエスのいのちを生きる」(新教出版社)を読んでいる。聖餐と洗礼の関係を知るためである。
日本の教会の多くは洗礼を受けた者が聖餐に与る方式をとっているようだ。教会の案内には「どなたでもお入りください。」と表示しつつもいざ聖餐となると「洗礼を受けてない方はご遠慮ください」となるのである。

聖餐をオープンにするかクローズドにするかは長い間議論されていることでそう簡単に決着が着くものではなさそうだ。場合によっては教会を二分しかねない議論となるのである。

だが私の信仰のために確認したくて聖餐論を読んでいて、イエスの愛に再び今日も触れたことは大きな喜びであった。
イエスはイエスの死後直ぐに、いや十字架の前にも、イエスを裏切る弟子たちに最後の晩餐でパンとぶどう酒を与えたのだ。それはイエスの体そのものだった。ここに聖餐の原点がある。

よく、(ヘルパーさんが来る時間になった。続きは後ほど)(介助していただいて入浴がおわったので続けよう)コリントの信徒への手紙一の「11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」が聖餐を受ける基準のように言われるが、これはパウロの言葉を曲解している。いつか聖書研究会で聞いた話では、コリントの信徒は信仰理解に乱れがあって、働く必要のない裕福なものが先に来て飲んだり食べたりして、貧しい者が来た時にはもう食物がなくなっている始末だったという。「ふさわしくない」とはこの裕福なもののことであって、洗礼の有無ではないのである。

イエスは晩餐をとおして、食事を共にすることをとおして、求める人に救いを与えたと言っていい。
私の「必要性」は本書で満たされた思いがする。また、イエスの肉と血に与る幸いを感謝する。

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