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2013年9月19日 (木)

出来るということの誘惑

我が家に55インチのテレビが入った。なんせ大きい。相撲を見ていると桟敷にいる錯覚に陥ると言ったら大げさだろうか。

このテレビは単なるテレビではない。インターネット接続で買い物やネット検索もできるし、ツタヤから映像を購入して好きな映画も見ることができる。

多くのことができるとなるとついそれをやってみたくなるのが私の悪いところである。
先日、ツタヤTVとはどんなものか試したくなった。別に映画に興味が有るわけではないのだが、どんなものか知りたいのだった。
残念?ながらダウンロード速度が十分でなくぎこちなく動く映像しか見られないので縁を切った。

世間にも同じ人間が多く見受けられる。科学者という人種もその一人である。特に気になるのは生科学に携わる人たちだ。彼らは動物の体内で人間の臓器になる細胞を造ろうとしたり、なにやらできることはなんでもやってみようとしているようだ。これも人間に「出来る力」があるからだろう。

できることとやるべきこと、やっていいこととは違う。テレビの遊びぐらいは多少はみ出してもかまわないが、人間倫理はそうはいかない。将来、人間の本質がバラバラにならないように科学者はもう一度自分たちのやっていることを確認したらどうだろうか。

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