« 「王宮」住人からの応答 | トップページ | 旧約の語りかけ »

2013年8月 5日 (月)

神の平和

昨日は日本基督教団の定める平和聖日。説教は二箇所の聖句を用いてなされた。
旧約聖書哀歌2章20節から22節。「2:20 主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられた者がありましょうか。女がその胎の実を/育てた子を食い物にしているのです。祭司や預言者が/主の聖所で殺されているのです。
2:21 街では老人も子供も地に倒れ伏し/おとめも若者も剣にかかって死にました。あなたは、ついに怒り/殺し、屠って容赦されませんでした。
2:22 祭りの日のように声をあげて脅かす者らを呼び/わたしを包囲させられました。主が怒りを発したこの日に/逃げのびた者も生き残った者もなく/わたしが養い育てた子らは/ことごとく敵に滅ぼされてしまいました。」
ここはバビロニアがユダに攻め込み、街を蹂躙している様子を書いている。食べ物がなくなり、ついに子どもまで食いものにされている。こんな悲惨な、想像を絶することがあろうか。
しかし、現実を見るに、今地球ではこの世の力が権力を振るい、核が世界を支配し、軍事力が国を守る同士として大手を広げつつある。かつて犯した罪への反省はまったくなされようとしない。バビロニアの力の横暴さを見る思いがする。
さて、もう一箇所の聖書。それは出エジプト記22章20~26。
ここでは寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。と神はおっしゃっている。また、貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。とも言う。
そして、「もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」と終わる。
現在、私たちは自分の上にも、隣人の身にも、また社会の姿にも多くの苦しみ、矛盾、痛みを見ている。そして、何故これが解決されないのか、正義は失せたのかと問う。牧師はこの苦しみを問い続けることが必要だと説いた。なぜなら神はその声に耳を傾ける方であるからだ。哀歌のように「なにゆえに」と問い続けながら、信仰生活を続けたい。

|

« 「王宮」住人からの応答 | トップページ | 旧約の語りかけ »

「信仰」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136400/57931201

この記事へのトラックバック一覧です: 神の平和:

« 「王宮」住人からの応答 | トップページ | 旧約の語りかけ »