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2013年4月 4日 (木)

聖書に触れない寂しさ

水曜日は教会では祈りの会、あるいは祈祷会と呼ばれる集会が開かれるのが一般的である。我が教会でも長年そうやってきた。妻が元気なときは一緒に教会に行き、6,7人の方々と聖書を学び、祈りを共にしていたのだった。
ところが参加者が病気になったり、家庭の都合がつかなくなって、近年は誰も参加することのない水曜日が続いていた。週報には「祈りの会 1」と報告が載ったのだ。1とは牧師一人ということである。
今年、これに変化が起きた。牧師は祈りの会の始まる10時までは教会で参加者を待つ。15分過ぎて誰も来ない場合は出席したくとも行けない私の家でこの祈りの会を開くことになったのである。お陰で私は同じように参加を希望するHさんと豊かな主の御言葉に接することが許されたのだ。
ところがこの祈りの会の持ち方に先日の教会総会で異論が出た。教会は公の場である。「祈りの会10時」と教会に公示してある限りどなたが何時に来るかわからないから牧師は教会に留まるべきだというのだ。現状を考えて教会以外でもやっていいのではないか、との意見もでたが、結局は「正論」が通ってしまった。
こうして私は水曜日には聖書に触れられないことになってしまった。
総会の席で遠慮しつつ、長血の病の女の気持ちを私は話した。律法では出血がある女は汚れているとされる。表には出られない。だが、イエスの恵みに与りたいとその女は思った。そして、人混みに紛れてイエスに触れたのだ。
教会にもいろいろの考え、いろいろの人がいる。今回のことを主はどう導くことだろう。

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