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2013年1月

2013年1月29日 (火)

マッサージ師との会話

昨日のマッサージの時間、ちょうど国会中継が始まった時と重なっていた。安倍首相が施政方針演説を始めていた。
首相は強い日本を盛んに強調する。外交においても同様である。それを聞きながら気持よくマッサージを受けていたのだが、マッサージ師の方が、本当に自衛隊を国防軍にして大丈夫なんですかね、とおっしゃった。
いや、軍事力を強化しても意味ないですよ。戦争したら国力は圧倒的に中国の方が強いし、またする気はないでしょう。せいぜいアメリカへの協調姿勢の見せびらかせではないですか。と私。
そうですよね、世界に全く違う国があってもいいですね、と彼が言う。
その通り。万が一軍事力が弱くて国が滅びたらそんな理想の国があったと歴史に名誉な出来事を刻むことになるね、と半分冗談に半分は真剣に私が返した。

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2013年1月23日 (水)

主と共にあれば

1:17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
1:20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
 
水曜日、祈りの会が終わった。聖書に聞くことは力を与えられることだと実感する。
今朝はフィリピの信徒への手紙に聞いた。パウロは獄中にあるが、喜びの書簡と後に言われる手紙をフィリピの信徒へ書き送っているのだ。
たとえ教会の内部に不順な動機から神を語るものがいても、また自分が捕らわれの身にあって死に直面しても、それが神を崇めることになるなら喜んでいよう、とパウロは言う。
病気の身も生活の困難さもなんだろう、主が共にいて、主を語るチャンスを与えているのではないか。主よ、私の傍らに居てください。

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2013年1月21日 (月)

15,000円の日

肝臓のCT検査で病院へ。変化ないと思っていても検査となると緊張する。
福祉タクシーが9時に来てくれた。いつも親切に対応してくれて気持ちがいい。
検査のスタッフも検査台への移乗、衣服の着脱など気軽に手伝ってくださる。
診断の結果は特段問題なし、とのこと。いつもの薬を処方されて11時半には全て終わった。
さて、今日は通院にまつわる経費について。
診察料4,300円。薬代6,000円。タクシー代3,000円。健康維持にはこうして大きな金がかかる。多くの年金受給者は6万円強の生活を余儀なくされているとのこと。その方々は私のような状況に置かれたらどうするのだろう。

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2013年1月18日 (金)

年賀状の追伸

おかしな表題を付けたがこれは同一人物から追っかけて二通の年賀状をいただいたということ。
その方はかつての職場の同僚の女性である。
今度届いた葉書には、最初の年賀に添え書きをしたいと思っていたのだが、それをしないうちに家族が投函してしまいましたとあった。そして、教会の婦人会会長として奉仕をしていること、婦人会の会員は63名という大きな組織で、年代も様々で大変だが守られていることなどが書かれていた。
私はわざわざこうして御自分の様子を寄せてくださるMさんの中にある暖かなものに触れた喜びにしばし浸っていた。

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2013年1月14日 (月)

よい句に出会う

今朝の朝日杯壇、金子兜太選の句の中にこんな句があった。
難聴も神の恵みや初日の出
鬱の子の蒲団薄くはないだろか
作句の技術より詠われているこころに打たれる句である。
難聴で日々不自由を感じているかもしれない作者がその難聴故に味わう喜び。人との交わりの中でそれを与えられているのだろう。そして、それは神様からの恵みであるという。今の自分をしっかり肯定できるからこそ初日の出にしっかり向き合うことができたのだろう。
もう一句の作者は親御さんだろう。家で一緒に暮らす子か、あるいは他所に出ている子か、それは分からない。鬱故に自ら訴えることが苦手なのかもしれない。その子の蒲団がこの寒さの中で薄くはないだろうかと心配している。親の優しさがにじみ出ている。
金子さんもいい句を選んだものだ。

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2013年1月10日 (木)

日々の聖句

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカによる福音書)
教会の友Tさんからいただいた「日々の聖句」で一日一度は聖書に接する機会を与えられている。不信仰な者にとっては簡単に読めて便利な冊子である。
今日の聖句は上掲のもの。
ここは「見失った羊のたとえ」の前書きとしてのものだが、ここだけでも十分慰めを含んだ聖句である。ファリサイ派の人々や律法学者たちの不平の言葉がいいではないか。
徴税人や罪人、彼らは世間からも白眼視されているし自らも自己を肯定できず悩んでいたかもしれない。その人たちがイエスに迎えられて、食卓を共にしているというのだ。きっと皆うれしそうに食卓を囲んでいたのだろう。不平を言う人達も羨むような光景が目に浮かぶ。
私もそのイエスにとらえられていることを喜びに今日も過ごそう。

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2013年1月 8日 (火)

おせっかいな教え子

教え子(t)今日は七草だけど食べましたか?私は今朝作ろうと思ったのですが時間がなくて、今作っています。昆布出しでね。

返信(h)今朝はおにぎり一個。

t おむすびだけ?お嫁さん忙しいんでしょうね。

h 昼はレンジでチンしてスパゲッティ。夜は〇〇の牛丼でした。

t 先生、冷凍食品でレンジでチンして食べたられるものがあるんですよ。まあまあの味ですよ。

h 以前はそんなの利用していたけど、今はなんでもいいという気ですよ。

t 年を取ると食べることが楽しみなのになんだか寂しいです。どんなにか奥様は生きていたかったでしょうね。先生のために。

 返信せず。

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2013年1月 7日 (月)

俳句 年末年始

初春や焼き印のごと木陰伸ぶ
元日の新聞重い歳となり
新年の光躍るやそこそこに
納豆の戻りし四日の朝げかな
蝋梅や朝ごと輝き増しにけり
蝋梅や綿飴のごと咲いてる
葉落としロウバイ輝き増しにけり
ロウバイに朝の光の輝いて
松明けの納豆戻る朝餉かな
 
列島が阿呆になりたる晦日かな
大みそか高倉建と過ごしけり
月毎の俳句の会や年暮れる

大窓に冬日燦燦レストラン

着ぶくれて風呂がますます遠退けり
厨房に未だ婦人いて師走暮れ

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2013年1月 6日 (日)

恵みの新年礼拝

コレヘトの言葉3章にはあらゆることには時があると書かれている。
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。3:9 人が労苦してみたところで何になろう。3:20 すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。
人の営みは虚しい。そう読める。
そのどうにもならない絶望の世界に神の愛が入り込んできた出来事が主イエスの降誕である。私達は今その信仰に生かされているのだ。
日々の困難の中で望みを失いかけている時、このメッセージは涙するものであった。

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2013年1月 3日 (木)

やはり寂しい

ふとしたことから心の声に気づいた。寂しいと言っている心の声である。
もう別れて4年半になる。毎日することも見つかったし、新しいスタイルもできたと思っていた。

だが、それらは表面に薄く張った膜みたいなもので少しの風で破れ、流される性質のもののようである。その下にある水の流れは深い想い出に満ちていて、開放されないまま淀んでいるのだ。
 
よく任天堂のゲーム機で遊ぶ。目が疲れていてもやめられない。競馬に長い時間を潰す。こうして自分の心を忘れようと薄皮づくりに夢中になっている。
 
42年共に生きた濃密な遺産。それを共有できない寂しさ。
寂しいと言え!寂しかったらそう言え!それでいいではないか。

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