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2012年12月

2012年12月29日 (土)

力に頼る政治

30:1 災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが/わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが/わたしの霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。
30:2 彼らはわたしの託宣を求めず/エジプトへ下って行き/ファラオの砦に難を避け/エジプトの陰に身を寄せる。

イザヤ書30章の言葉である。アッシリアの圧力から逃れるためにユダは主に頼ることをせず、エジプトのファラオに身を寄せるというのだ。これは今の日本の政治に似ている。
中国や韓国と不安な情勢にある時、自民党政権は軍事力を強化し、アメリカに庇護を求めようとしている。
平和憲法があり、争いを避け、お互いを尊重することを基本に据えたはずであるのにその精神を忘れてしまったのだ。
 
だが、絶望はしない。主を待とう。主はこう言われる。

30:18 それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
30:19 まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ/もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて/必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。

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2012年12月28日 (金)

お前さんへ

昨日、facebookへこんな書き込みをしました。

一年間よく頑張ったね。
牧師さんに助けていただいて礼拝を守り、役員として奉仕をし、家庭集会も喜んで行いました。
ままならない体と付き合って健康も守りとおしたね。
朝には下着を洗面所で洗っては干し続けました。いや、その前に天候を伺いながら雨戸開けもしました。
昼になると冷蔵庫を覗いては昼食の準備をしていたけど、もうこれも4年になるね。
楽しみのブログやfbで多くの友達の皆さんとも交流をやっていたのを知っているよ。
一人の寂しさのせいか間食がやや過ぎて太ってしまったこと、それにこれは大きな声では言えないけど競馬を少しやり過ぎてないかい
でも最初に言ったとおり、よくやったと思うよ。そこで、一つご褒美をあげよう。ほら、キンドル・ファイアFDだ。長い間買うのを迷っていたものだろう。受け取って。
                ーもう一人の自分からー

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2012年12月25日 (火)

プロセスを大事に

いつも話題の入手先はテレビやラジオなのだが、今回も同じ。
昨日、ふとテレビをつけると「プロセスを大事に」という番組タイトルが映っていた。だが、残念なことにそれは番組の終了の画面だった。
しかし、この画面は私の中に暖かな何かを残していったのだった。
今、人々は結果だけを重んじている。よい結果がでないと人の価値が下げられる。方法はともかく、結果が大事な時代になっている気がするのだ。だから人は疲弊しきってまで結果を出そうと懸命である。
私の後年の授業は学習過程を大事にするものだった。国語の授業だったが、そこではちょうど美術の時間に子どもたちがそれぞれ個性的な絵を描くように、あるいは家庭科の時間にめいめいが自分らしい作品を制作するように、生徒たちは自分の学習活動を進めた。
また、そんな生徒中心の授業を展開する理論的背景について放課後には数人の仲間と読書会もやったものだ。
現在、「大事にすること」について心置きなく語れる友が周囲にいないのが寂しい。いや、そう言ったら不遜になる。自分自身、何を大事にして生きるか、あまり問わなくなっている。

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2012年12月23日 (日)

クリスマス礼拝の祈り

 恵み深き父なる神様。あなたの導きによって私たちは集って参りました。多くの兄弟姉妹と今からあなたを賛美する礼拝に与れることを心から感謝します。
 今、私たちは御子のご降誕を喜ぶ礼拝をあなたに向けて献げようとしています。

 神様、この世は強い者が力を得ようとしています。貧しい人が絶望の淵に立っています。
 年を重ねた人たちは孤独を強めています。働く人は不安に陥いっています。教会は一致を欠こうとしています。
 昨年の東日本大地震にあった人たちは未だ苦しみの中におります。
 神様、あなたはこの混沌した世界にあなたの愛と正義を実現しようと、御子を遣わしてくださいました。
 今日は私たちが待ちかねた喜びの日です。どうぞ、へりくだって御子を自分に、教会に、世界に受け入れることができますようにしてください。
 午後に予定されている愛餐会、祝会が喜びの集いとなりますように導いてください。
 神様、この良き日にここに来られない友がいることを覚えます。どうぞその一人ひとりの身元を訪ね、力を与え、励ましを与えてください。
 喜びのメッセージを取り次ぐ先生をあなたの愛で満たしてくださいますように。
 
この整いません祈り、感謝、願いを贖い主イエス・キリストのお名前を通してみ前に献げます。  アーメン

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2012年12月18日 (火)

生きるということ

ラジオ深夜便の「明日へのことば」で絵本編集者松居直氏の言葉に出会った。
松居氏は終戦の時、18歳の旧制中学生だったという。軍国少年だった氏は終戦になって初めて「生きる」ことに直面せざるを得なくなった。なぜならそれまではどう死ぬかを考える生活だったからだと語った。
生きることを新たな課題として自らに問わねばならない。そんなことは現在ではありえないことだろう。皆当たり前のように、自動的にその日を送っている。
この言葉に触れて、私は今日の自分の一日が脳裏をかすめた。この後何年の命だろうと思う昨今を過ごす自分。それは「生」の有り難さを忘れた姿ではないのか。
生かされていることを自覚し、それを見つめて一日を過ごす。そんな今日を送らねば、と思った。

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2012年12月17日 (月)

選挙終わる

そんな感じはしないのだが、もう来年のカレンダーが届く昨今、ああ、師走になったのだあと思わずにはいられない。
昨日は教会の帰り道、投票所の前で車から下ろしてもらって選挙をしてきた。まったく我が票が活きるとは思わない中、それでも死に票にするのは惜しかったのだ。
結果は憲法改悪を図る政党が絶対過半数を得るという始末。いったい日本はこれからどんな道を辿るのだろうと案ぜざるを得ない。
多くの国民は憲法問題よりも日常の生活、景気の上昇、賃金の獲得が主眼目なのだろう。もっともな話である。
表面はその対策に力を入れるように見せながら、根底では国家権力の強化や軍事力増強を企図する政府ができるだろう。
心ある人達としっかり監視していきたいものだ。

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2012年12月10日 (月)

人の手の助け

学生時代茗荷谷駅に近く下宿していた私は土曜日になると本郷の東京大学までデッサンをしにバスでよく行っていた。
東大の医学部の学生が踏朱会という絵画クラブを作っていて、友人の誘いでその会に属していたからだ。
古い部屋に三々五々集ってくる学生は教育大の学生とは違って上等な衣服を身に着けていた。画材屋さんも来て、部屋の隅で木炭やコンテなどを売っていた。
私たちはそれを買って裸婦のデッサンを楽しんだのだった。独立美術協会員の画家が指導をしてくれていたが名前は失念した。
終わると今度は赤門近くにあった喫茶店、多分ルオーといったと思うのだが店の中に絵画が掛かっている店に行った。
そして、皆と分かれてまた下宿に帰るのだが、当時杖で歩いていた私はバスになんとか乗ることができた。まだ車掌さんがいる頃だったので、バスが停まると先ず先程描いてきた丸めた大きな画紙を預けて、それから片方の杖も差し出して持ってもらい、その後で残った杖と足に力を込めて乗り込むのだった。
車掌さんのいるバスはもう何処へ行ってもお目にかかることはできない時代になってしまったが、あのような人の手で助けをいただいて過ごした青春時代が懐かしい。

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2012年12月 9日 (日)

待つときの準備

日常の生活で「待つ」ことは多い。私など通院するにも人の世話になるから、予約したタクシーが来る日には朝から落ち着かない。トイレに何度も行き、暖房を消し、忘れ物をしないようにチェックを繰り返し、時々窓の外を眺めたりする。
こうして、「待つ」には努力と気持ちの集中が必要なのだ。
今はアドベントの時。主を待つ時。イエスに先駆けて来たヨハネは人々に悔い改めを説いた。それこそ救い主を待つときの準備だろう。
日常での待ちではあれこれ準備をするのにアドベントの準備がおろそかになっていることを思う。

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2012年12月 6日 (木)

垂乳根の

先日句会を持った。お一人は入院中で四人の句会だったがいつものようになかなか賑やかである。
兼題が柿だったのでよい句が思い浮かばず、私は
 垂乳根の母の乳房や吊し柿
を出したのだが、なんと無点句。まったく相手にされなかったというわけである。
どうも歳を重ねたご婦人達に披講する句ではなかったらしい。
だが詠み手としては懐かしい母を偲んでの句であったのだ。
湯殿から私を背負って母屋に帰る母は裸で、その乳房は吊し柿のようにシワがあった。年を重ね、苦労の末光さえ帯びた乳房だった。

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2012年12月 5日 (水)

フィリピの信徒への手紙を再び

祈りの会が恵みのうちに我が家で開かれた。テキストはフィリピの信徒への手紙。前回と同様のメッセージを新たな思いで受け止める。

1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

もうじきクリスマス。主イエスの誕生を喜び、感謝する時が来る。そのイエスこそ苦しみの極みに立たれた方。
イエスをよみがえらせ、希望をもたらした神に従って人生を歩みたい。

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2012年12月 1日 (土)

Kさんのこと

先日の葬儀の時のこと。小さな葬儀場で係の人も少なかった。そのため、手製の式次第を渡すのも教会員のKさんがやっていた。
式が無事終わって三々五々列席者が帰って行き、隅にあるテーブルでは仲間が数人がコーヒーを飲んでいた。
ふと玄関脇を見るとKさんがなにやらしている。
Kさんは小柄で、薄くなった髪をしっかりと梳かし、端正なスーツ姿である。教会でもその身なりと同じ姿勢で目立たないが誠実に奉仕の役に当っている。もう85歳なので献金の祈りは免除して欲しいと言われて今はやっていないのだが、以前その奉仕に当たっている時には、読んでいるわけではないのにいつもしっかりした同じ内容の祈りを捧げていたのだった。
玄関の話に戻ると、その時Kさんは式次第の印刷された紙を、それは配布しやすいように三枚セットになっていたのだが、そのセットを外して、同じ印刷面ごとに一枚一枚重ねていたのだった。もう使うことのない紙だから一緒くたにまとめて持ち帰ってもいいのにKさんは丹念に一人でその役をやっていたのだ。
コーヒーを飲み終わった人たちと一緒に帰っていくKさんを見て、こんな方に支えられることが日々多くあるのだろうなと思わずにはいられなかった。

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