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2012年5月

2012年5月30日 (水)

旅立ち

 どうやってミンちゃんは旅立つのだんだろう?
 「心配しないで」とミンちゃんが、まるでイタルの心の中を読んだように耳元で言った。「わたしはほんとうに大丈夫なの。ママにも言ったけど、行くのは悲しいことではないの」
「それでも、残ったぼくたちは悲しいよ。ミンちゃんはぼくたちのこと、忘れるのかな?」
「ぜったい忘れないよ。それにグランマが一緒だから何も心配ないの」
イタルはそれ以上なにも言わなかった。言えば泣きそうな気がした。
 
 「キップをなくして」の266頁、もう最後の場面からの引用である。
小学生のミンちゃんは駅でホームから転落して死んだ子だが全てをご存知の「駅長さん」のはからいで「駅の子」の仲間として過ごしてきた。だが、ようやくグランマがいる天に帰って行こうと決心したのだった。
 天国に行くのは悲しいことではない、とミンちゃんは言う。そうかもしれない。人はこの世の与えられた務めを終えると皆天に行くのだ。
 一方、イタルのこころも真実である。
 ミンちゃんが良い友達に見送られて天に帰って行って、駅の子たちがそれぞれの家庭に戻って、キップをなくしてはエンディングを迎えた。
 私をクリーニングしてくれた本ではあった。

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2012年5月29日 (火)

キップをなくして その後

だいぶ読み進んだ。こころが清々しくなる本である。子どもの世界は元はこんなところなのだろうという気がしてくる。
キップをなくして駅の外に出られなくなってしまった子どもたちが東京駅の中で一つの世界を造って温かな交わりをし、また今まで彼らを縛っていたものから解かれて日々を楽しく過ごす姿がなんとも言えないファンタジー性を持っているのである。
その子どもの中に鉄道事故で亡くなっている子も含まれている。まだ天国に行きたくないので他の子どもたちと一緒にいるのである。
昨日まで読み進んだところはこの子が他の子供達が夏休みをきっかけにそれぞれの家庭に帰るのを機に天国に行こうと決心をしたところだ。
池澤夏樹という作家がキリスト者かどうかは知らないがここでは人のいのちや死が大きな神様のご支配の下に、祝福の中にあるように描かれていて、それはそよ風のようでもある。
池澤夏樹は純真なこころの持ち主なのだろう。

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2012年5月25日 (金)

キップをなくして

「キップをなくして」(池澤夏樹著)を読んでいる。
ひょんなことから読むチャンスをもらった本である。
先日フェイスブックに昔通った東京駅地下通路の写真を載せた。新幹線ホームに行く時に駅員に案内されて車椅子で時々利用したところである。
油の染み付いた煉瓦造りの通路にクラシックな灯りが点っていてどこか別世界に行ったような写真である。
これを見た昔の教え子が「キップをなくして」の世界を懐かしく思い出しました、先生も読んでみてくださいとコメントを入れたのだった。
なるほど、と数ページを読み進めて合点がいった。切手マニアの子どもが電車に乗って切手を買いに行くのだが、キップをなくして改札口から出られない。そんなとき同じことを経験した子供たちが駅の中で子供たちの世界を作り上げるという鉄道ファンタジー。夢多い彼ならこれにハマることもあっただろう。
私も今、スルメイカ、いやスルメスティックをかじりながら少年たちとファンタジーの世界に入り込んでいる。

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2012年5月23日 (水)

弟来る

しばらくぶりに弟がやって来た。
妻が他界し、孫たちもそれぞれ部屋を持つようになってからしばらくやってくることがかなわなかった。
弟が同窓会を信州の温泉旅館でやるからその前の日泊めて欲しいと言ってきたので、ハルちゃんが他所に住むようになったので部屋も空いているし、若い者もなんとかもてなしができるだろうと判断してOKを出したのだった。
いつもより早く帰宅してくれて、夕食が用意されたのだったが、少しのメニュウの食卓を弟は喜んでくれ、近況や昔話を楽しんでいた。
私と違って声は大きいし、話し好きだから嫁さんともビールを飲んで会話を交しているのを見ると、普段ひっそりとしている我が家の空気はあながち若者のせいではなく、むしろ私の性格にもよるのではないかと改めて思わされもしたのだった。

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2012年5月21日 (月)

フェイスブックというもの

フェイスブックというものを興味がてらに始めた。なかなかうまくいかない。写真に説明をつけようとしても反映されないし、他の写真のタイトルと混同してしまう。
 
だが、面白いことには変わりない。こちらの情報を少しばかり入れただけで旧知の友を探しだしてくるにはびっくりである。娘の動向までよくわかる。あちこちクリックしているとしばらく遊ぶことができる楽しさは確かに持っている。

改めて気付かされるのはいかに現代社会ではネット情報が氾濫しているかということである。相手がこちらと連絡を取りたいなどと考えてもいないのにその相手を浮かび上がらせてしまうのだから驚きである。40年ほど前学校で授業で付き合ったSMさんの姿に接したのだった。
 
そういえば私はよくネットで買物をするのだがその会社のサイトを開くと、過去に私が購入した履歴がちゃんと出てくるし、購入せずチェックした商品まで掲載されているのだ。
世の中の誰か知恵に長ける人物がある意図を持って氾濫している情報を巧みに操ってなにかとんでもないことをしでかすことだってあるかも知れない、などと考えるのは杞憂であろうか。

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2012年5月17日 (木)

弱き者を選んだ神

今朝は家庭集会。テキストは申命記だった。申命記はモーセの説教という形をとっているが、実はもっと後世の捕囚時代に書かれたものであるという。囚われの苦しみの中、もう一度神の言葉に聞くために編まれた書なのである。
今朝は7章を学んだ。そこにはあなた方を選んだのはあなた方が強かったからではなく、弱い者故であるとのメッセージが告げられていた。弱くていい、そこには神の働く畑がある。
私はここには新約になってメインのメッセージになる弱さの肯定がある気がした。イエスは弱い存在だったから十字架につかれたのである。そして私たちの救いを完成して下さったのだ。
良いメッセージをいただいた家庭集会であった。

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2012年5月14日 (月)

どくだみの花

学校にいた時分、時間に空きがあるとカメラを持ってグランド周辺の植物の花を撮っていたものだ。校庭の一部は芝生になっていたから松葉杖を放り出して這いつくばってタンポポの綿毛を狙ったこともあった。
また、講堂の脇にあったバラの花を少し望遠の利くレンズを使って撮ったりもした。白が混じった紫がかった赤い色の薔薇の写真が今でも私の寝室には額に入れて掛けてある。
ある日宿舎の蔭にどくだみが白い花をつけているのに出会った。葉はあまり綺麗とはいえないし、名前から言って人に好かれるものでもない。だが、よく見ると花は十字になって重みがある。何枚かシャッターを切って帰った。
現像した写真を植物を専門にする女性の先生に見せると大変気に入ってくれた。その方は学校の植物図鑑を作っては授業で使っていたらしい。
それ以降彼女の役に立つのがうれしくて花や実を付ける草花をよく撮るようになった。教官室の出口近くにあった青桐の根本には小さい紫の花が出ていたが、それは花ニラだと彼女から教わった。ムラサキシキブという名もそうして覚えたのだったかもしれない。
こんな悠長なことを書いていると教員の本務かとどこかの市長に怒られるかもしれないが、こうした自由さのないところには真の教育も成立しないだろう。

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2012年5月13日 (日)

復活節の中の祈り

 御在天の父なる神様。あなたは今朝もこうして私たちをあなたの下にお招きくださり、共に交わる時をお与えくださいました。感謝致します。
 どうぞこれからのひととき、私たちがあなたの愛に応えて、真心を持ってあなたへの賛美の礼拝を献げることができますように。
 神様、私たちは今、あなたが死に打ち克たれた復活節の中にあります。あなたは復活され、とぼとぼとエマオへの道を歩いていた二人の弟子に付き添って歩き、彼らに信仰にある希望を与えられました。またガリラヤに帰って失意の中で漁をしていたペテロを再び呼び出され、彼を温かく迎えて新しい道を用意されました。
 どうぞ私たちも同じようにあなたが傍に居て一緒に歩かれ、愛の言葉をおかけになってくださっていることに気づかせてください。そして、その御声に応える者とさせてください。
 本庄教会に集う私たちのこの一年がそのあなたの愛によって突き動かされるものでありますように。
 この喜びの礼拝に集えない友をその場で祝し、支えてください。あなたへの賛美と感謝を私たちと共に献げることをなさしめてください。
 午後予定されている集いをお導きください。
 御言葉を取り次ぐ先生を導き、豊かにあなたの恵みを語らせてください。
 これらの言い尽くしません祈りと感謝、願いを救い主イエス・キリストのお名前を通してみ前に献げます。  アーメン

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2012年5月11日 (金)

仰げば主の御顔

朝祷会に参加して大きな恵をいただいて帰った。感謝である。
説教はペトロへのイエスの愛。
イエスを裏切って、その己の弱さに打ちひしがれて故郷ガリラヤに帰ったペトロはまた漁師になって魚をとっていた。だが、なかなか網にかかってくれない。
そこにイエスがおいでになった。そして網を入れるところを教えられ、それに従ったところいっぱいの魚がとれたのだった。陸に上がったペトロのところには炭火が炊かれたいたという。
イエスは自分を捨て去ったペトロを責めるどころでなく、彼を引き受け、温かくもう一度接して下さったのである。
私たちにとってのガリラヤ湖畔とはどこか、それは日常の生活であると牧師は言った。困難を多く抱えて、いつも下を向いて過ごしている私たちも顔を上げて仰ぎ見る時、イエスの温かい御顔が待っているのである。
主よ、あなたの御顔を私にも見上げさせてください。

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2012年5月 9日 (水)

微笑みのある日

120507_214301 日々微笑みのある生活を送りたいものだ。でもこれはなかなか難しい。一人で微笑んでいるのもなんだか変な気がする。
いや、時々そんなこともある。電話をもらった後その話がいい話だったりすると一人で微笑む。
でも、微笑みを隣の人に感じながら共にいられたらどんなにいいだろう。
ここに紹介する絵皿はヒカちゃんが6年生のときに制作したものである。『笑』がほんとうに笑っている感じがしないだろうか。

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2012年5月 8日 (火)

主にまかせて

病院の待ち合い室にいる。なかなか順番が来ない。
今朝は泌尿器の具合が悪くまんじりともしなかった。その上胸の筋肉がピクピク動き不安が募った。
最後に行き着いた思いは私は主のもの、主は覚えていてくださるということだった。
主のなさることを受けて生きよう。

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2012年5月 4日 (金)

ライラックが咲いたよ

Photo 君の植えたライラックが咲いたよ。小さなライラックが咲いたよ。紫の花を小さくつけてライラックが咲いたよ。
もうじき母の日が来るね。今日はこれから衣理子が君のお墓に寄ってから来てくれるってさ。家も緑になって今日はいい日だから映えているよ。みんな君の置き土産だね。
空から見ていてね。Photo_2

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2012年5月 3日 (木)

安心を配る手紙

東北に住む友人が昨日のブログを読んでコメントをくださった。こんなことを書いてきた。安心をいっぱい携えてくる手紙だった。 

「迷った羊を捜すから」;今日の一日も終わりに近づいています。
一匹の羊を探し出してくれる神様に感謝します。 午前中はデイサービスに行きお風呂に入り体をきれいにしてもらいました。私の行っている事業所はみんな親切で言葉が丁寧です。 「服を脱がせていただきます」「ありがとうございました」と一つのことをするたびに言います。 運営している人がいいのか、職員指導がゆき届いているのか本当にやさしく親切です。みんな汗を拭き拭き働いています。 私に仕事がある時はお昼を食べてすぐに職場に送ってくれます。 いやな顔をしないで笑顔で送迎してくれます。 今日は髭までそってくれました。忙しいのに駆け足で介助してくれる本当にいいデイサービスです。 一匹の羊を大切にしてくれるイエスキリストのように感謝しています。 体だけでなく心もきれいになって帰ってきました。 道端にはチューリップが咲いていました。 リフォームの完成おめでとうございます。

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2012年5月 2日 (水)

迷った羊を捜すから

聖書には迷った羊の有名な話がある。もし一匹の羊が迷ってしまったら残りの九九匹をおいても羊飼いはその一匹を捜す。そして、その一匹の羊が見つかったらその一匹のことを喜ぶだろう、というのである。
今日接した説教である牧師は「迷った羊を見つけ出すには、羊飼いは迷った羊と同じ道を歩かなければならないのです」と言っていた。
なるほどと思う。群れが嫌になって逃げ出したのかもしれない、逃げる道には狼がいて危険が待ち受けているかもしれない。それでも羊飼いはその一匹を求めて森に入るのである。
こうして困難を共に背負ったからこそその一匹が見つかった時には羊飼いに大きな喜びがあるのだ。

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緑の家に

足場が取れてようやく新装なった家の姿が見られるようになった。うーん、なかなかいい。落ち着いた緑がしっくり周囲にマッチしている。
子ども夫婦も気に入ったらしく、よくなりましたね、とめったに必要なこと以外は口を出さない嫁さんまでも嬉しい言葉をかけてくれた。
リフォーム会社の若い担当者が請求書の明細を持って来たので、これで私の生きているうちはメンテナンスは必要無いですね、と言うと「もちろんです。10年は持ちますから」とのこと。そんなに先のことは私には関係ないよ、45年持てばいいんですよ、とつい本音を吐いた応対だった。
天気が良い日に写真をここにも載せることにしよう。

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