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2012年1月 4日 (水)

句集あとがき

 あとがきに代えて 
 句集「木曜の朝 第2集」ができたことを仲間の皆さんと共に喜びたいと思う。実は現在、同人の一人の方の都合があって木曜の朝ではなく、金曜日に会を持つことが多くなっているのだが、1集とのつながりを重んじて、「木曜の朝」という名前を踏襲することにした。
 もうこの句会が始まってこの正月で56回ほどになるが、当初は町の女性センターなどを利用して開いていた会を、妻が亡くなり、私も外出しにくくなったことなどから、平成20年秋から私の家で持つことになったのだった。
 特記すべきは、その頃から、句会が終わるとめいめい持ち寄った自慢の料理をいただきながらお昼を共にするのだが、これが今でも続いていることである。我が家に迷惑をかけないようにと紙コップからお湯まで持参されるのには恐縮という外ない。句会に2時間、会食に1時間、なんとも楽しい「金曜日の朝」ではある。
 ではいったい、なぜにこうして60回もこの会が続いているのだろうか。私なりに勝手に想像するに、その第一の理由は会の性格にありそうだ。実はこの会には主宰はおろか、指導者、先生がいないのである。ものの本によると「先生のいる句会は文芸の場の要素が多く、先生のいない句会は遊びの要素が強い」、だから「俳句を学びたいと思っている人は先生のいる句会に行く」ことが薦められるし「俳句を楽しみとしてやりたい人は先生のいない句会でいいのかもしれない」ということになる。
 これは一理あるとも言えるが、必ずしもそうではないこともある。句会の常道は投句、清記、選句、披講、講評であるらしいが、この「先生中心」の句会には会員同士が自由に互いの句を鑑賞する場がなかなか持てない。それに比べて、先生のいない私たちの句会は選句の後、その数を発表するだけでなく、自由に感想、批評を述べ合う、その時間に大半を費やすのである。そこで各自が何かを学び取ることも多々あると考えるのが妥当だろう。現にお一人の方は年賀状に「一字直ったら句らしくなり、とても勉強になります」と書いておられるのである。
 もう一つ、句会が長続きする理由は体験の共有ということにありそうだ。その俳句に詠まれている素材、心情、内容に共感し合い、暫くの間、楽しいやり取りが続くことがしばしばあるのである。人間誰でも自分の感情が受け入れられ、共感されれば嬉しくなるものである。これを先の文のように「先生のいない句会は遊びの要素が強い」と言うのならそう言っていただても構わないだろう。その「遊び」は尊い遊びである。
 今後もこの会が長続きして、お互いに周囲の自然や人の営みに細やかな視線を注ぎ、日々の生活を豊かにしていくことができたらどんなにか嬉しいことだろう。俳句雑誌や俳句番組を楽しんだり、そこから学んでいる仲間の方々が、この小さな会も大事なひとときとしてこれからも守って行ってほしいと願わずにはいられない。

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