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2011年11月 4日 (金)

寝坊の朝

目覚まし時計が鳴っているのはおぼろげながら聞いていた。いつも5時半とか、あるいはその近辺で目が覚めてしまうから目覚まし時計は不要なのだが、寝室に仲間が居るような思いがあって妻が居た当時のままに置いてあるのだ。6時20分になるとカッコー、カッコーと70回ほど啼くのである。

さっきカッコーが聞こえたなぁ、と思いつつ明かりをつけると驚いたことに時計の針は7時20分を指していた。よく寝た、珍しくよく寝た、そんな満足感が重く体に満ちていった。どうせ若い者はいつものように朝食をテーブルの上に置いて出かけるだろう、一人で食べるには変わりないのだから冷えたままでもいい、ゆっくり起きよう、そんな開き直った自分がそこにはあった。
でも今朝に限ってなぜこんなに寝坊できたのだろう、そういつもの説明癖の心が頭を持ち上げてきた。昨夜は三男が娘を連れて来てしばらくぶりに家族の会話を楽しんだ。それに妻の兄夫婦が今度の聖日に行われる召天者記念礼拝に来られないからといってわざわざ東京からた訪ねてもくださっていた。その濃い人間関係の中にどっぷりとつかれた満足感、安心感が私を深い眠りに導いたのかも知れない、これがたどり着いた解釈だった。

不幸は思いがけないときにやってくる。ふと今日が金曜日であることに気づいてしまった。先週捕まえ損なった灯油売りの自動車がやってくる日である。8時には家の前を通る。こうしてはいられない。私はひげを剃ることもせず、急いで洋服を身支度にかかったのだった。

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