« 私がある、という感覚 | トップページ | 礼拝に行けない »

2011年7月21日 (木)

家庭集会

教会は教会堂で行う礼拝や祈祷会だけでなく信者の家で開く集会も持っている。これは礼拝に参加できない人が平日の昼には集えるかもしれないし、また家庭集会を行う信徒の周辺の知人も呼べる利点を持つ。
だが、それは本来の狙いであって現在はそうした人が集うことも少なくなってしまった。
 
私の教会では地区集会と呼んでいるが、今朝は我が家が会場だった。老齢になって転居してしまい常連が1人欠け、妻が元気だったときにはおいでになっていた方が不参加になったりしていつもは4人ほどで聖書の学びと祈り、交わりを許されていたのだが、他の2人も都合がつかず今朝は先生と2人だけの会となった。
 
聖書は民数記。イスラエルの民が長い旅を終え、カナンの地に入る前の土地配分の話である。レビ人のための42の町と逃れの町6つ。これを嗣業として主は用意する。
土地も町も皆、主からの賜であることが分かる。
私たちに神はイエスを嗣業として与えたもうたし、私たちも主の嗣業であることを知る。
 
夏休みに入った孫ふたりを居間から追い出しての集会であったが少人数でも恵み豊かな時であった。

|

« 私がある、という感覚 | トップページ | 礼拝に行けない »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 私がある、という感覚 | トップページ | 礼拝に行けない »