« お母ちゃんの逝った日 | トップページ | 礼拝の祈り »

2011年7月 8日 (金)

空を見る人、谷を見る人

先日の旅は全国の障害をもつキリスト者の団体が一同に会して行う交流会への参加だった。岡山市は障害をもつ人に対応した宿がほとんどないそうで、ようやく事務局が探し当てたホテルの一室に私は東北から来たODさんと共に一夜を過ごすこととなった。
 
彼は若い時のリュウマチの後遺症のために体が硬直しており、腰、膝、腕などを曲げることができない。その上大きな体の彼は休むときにベッドに横たわるのも大変である。見ているとマットレスを二枚重ねにしたベッドに後ろ向きに倒れ込むようにして、その後介助者に足を回転してもらうのである。起き上がるときにはその逆の動作になる。足が床に着くと手を引っ張ってもらって、こんな表現をしていいのかどうか分からないが、大木を直立させるようにして起き上がる。
私はここで彼の不自由な体を紹介しようというのではない。その彼の生き方、生きる姿勢に感動を覚えたので、それを記したいのである。
彼はその体の抱える困難を語ることはない。そうではなくてその体で生かされている喜び、感謝を常に口にしているのだ。今回の東日本大震災で彼の家も半壊し住めなくなったが彼は命を守ってくださった神に感謝の祈りを捧げる。
こうした背景には彼の背負った絶望の日々がある。10年余彼は痛みに苦しみながら天井の穴を見つめて過ごすしかなかったという。いわば不要の人間であった。他人の世話にはなっても自分から行動することは何一つなかった。
そんな彼だから自分が他人にできることは喜んで行う。今回も誘われれば岡山まで出向くし、この秋には埼玉で講演をする。
私は講演依頼があるとまず自分の体の不調を気にする。道中の困難を思う。
彼はそうではない。今まで何一つできなかった俺に他人が物を頼んでくる、これが喜びでなくてなんだろう、そう思うのだ。
東北人特有の性格か、あまり多くを語らない彼だが、今日も北上の支援センターで仲間の援助に余念が無いことだろう。

|

« お母ちゃんの逝った日 | トップページ | 礼拝の祈り »

「障害のある生活」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« お母ちゃんの逝った日 | トップページ | 礼拝の祈り »