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2011年5月15日 (日)

たどたどしく聖書を読む

今日は礼拝の司会。無事に終わって感謝。
我が教会では礼拝に用いる聖書が長い。今朝も旧約聖書では2頁にわたっていたし、それに新約が1頁加わっていた。長いからと言って困るというのではない。神のメッセージを伝えるに必要ならば結構なことだ。
だが、司会となるとなるべく誤りないように、よどみなく朗読したいと思う。聖書朗読だけでなくプログラムの進行も流れるようにいきたいと考えてしまう。
このようなことは日本の教会ではどこでも守られていることだろう。
そこでふと考えるのだが、聖書朗読は必ずしも上記のようにしなくてもいいのではなかろうか、つかえたり、誤ったりしてもよいのではないかということである。
こう私が思う元には職場での体験が関係している。私の学校の生徒には言語障害を持つものが多かった。彼らと国語の授業で文章を読んでいると発声が困難だったり、構音に障害があるために朗読には時間がかかった。それでも私は読みたいという生徒にはいつも朗読をしてもらった。他の生徒は彼の朗読に耳を傾けていたし、じっと終わるのを待っていた。私はそこに大事な学習活動が展開されていると信じていたのだった。
他の人の遅い読みを聞くことはその間に表現をしっかり味わう余裕を持つことになる。自分の中で読みを反芻することにもなるであろう。
教会でも同じことがあっていい、そう思う。日本の教会はその誕生の過程でインテリゲンチャを多く迎えたゆえに現在のような”きれいな”礼拝が形成されてしまったのではなかろうか。
パウロは言語に障害を持っていたと言われる。もしかしたらパウロの説教は聞きにくかったかもしれない。
日本の教会ももっと泥臭い、生きた人間の息が感じられるものになったらどうだろう。

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コメント

礼拝は神さまに捧げるもの、だから、私は司式の時は精いっぱい丁寧に聖書朗読し、準備したお祈りを心をこめて読み上げたいと思います。奏楽のときは祈りながらオルガンを弾きたいと思っています。ありのままの私を受け入れてくださる神さまですから、気取らないいつもどおりの姿で礼拝を捧げたい、それが理想ですよね。

投稿: midori | 2011年5月18日 (水) 08時11分


  失礼します。  
  

  「アル中を癒され」「脳梗塞より生還」「倒産によるサラ金地獄」
より、御言葉によって「癒され・救われた者」の「証」です。  
     
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        ご笑覧ください。     安達三郎

投稿: あだち | 2011年6月26日 (日) 19時33分

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