臓器移植に思う
昨夜から脳死移植のニュースがマスコミを賑わしている。改正臓器移植法に基づく初のケースとしてニュース価値が高いのだろう。
臓器移植法が改定されて、脳死と判定された人の意思が不明でも、拒否の意思表示がなければ家族の承諾で提供できるようになったのだ。
摘出された心臓、肺、肝臓それに腎臓は全国各地の病院で移植されるという。
臓器を提供することに踏み切った家族の判断は重い。これを批判するつもりは私には毛頭ない。
だが、一般論として心に引っかかるものがあることは否定できない。
移植の際だけ認められる「死」があることにも人間中心の人間観を見るのだがそれは今回は置いておこう。
問題は移植という行為への根源的な疑問である。
臓器移植を肯定する論理の根底には人の体は部分の集積であるという人間観があるのだろう。近代思想が成立する以前は人は神の被造物であってそこに疑問を挟む余地はなかった。だが、デカルトの時代から人間を対象として分析的に捉えることになった。人間の体は機械のようであり、多くの部品によって組み立てられているという人間観の誕生である。
これは自然科学に長足の進歩を促すようになり、その結果人間生活に多大な貢献をしてきた。
だが神を忘れた人間は、今や人間の命まで創ることに挑戦するようになり、人が神の愛のもとに造られたものであることを忘れてしまっている。
神の造りたもうものには人間の基準から言えば非効率的、非経済的、存在の意味すら不明のものがある。しかし、その不完全さ、弱さを用いて神はこの世を変えようとしている。
機能しない人間の体の部分、知識を十分に用いることの出来ない人、体の一部が先天的に欠損している子どもたち、この人達はそのままで、人の世で生きるように、また生かされるように神は意図して創造されたのである。
そう考えると臓器移植が人間社会の今後の進むべき道として奨励されることに私の中には疑問符の陰が大きく投影されてくるのである。
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