« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »

2010年4月

2010年4月30日 (金)

昨日の聖句

昨日、よい聖句をいただいたことを記した。その句を反芻しているうちにふとナウエンのことを思い出し、彼ならばこの聖句をどう捉えるだろうと考えた。
そしてナウエンならぬ私が昨日とは異なる仕方でこの聖句をいただく思いに至った。
私たちは神様の子供である。親は子供に頼りにして欲しい、親とともにいることを喜んで欲しい。そう願うに違いない。神様である親は神様を見上げて祈っても欲しいと思うだろう。
また、親が与えたもので一時は苦しみを伴うことも、感謝して受け取って欲しいのだ。
私たちの神は人格的な交わりをもって接してくださる神である。だから私たちにこんなふうに望んでおられる、テサロニケの信徒への手紙はこう書いているのではなかろうか。

| | コメント (0)

2010年4月29日 (木)

支えられる言葉

先日、あるキリスト教障害者団体が解散を前に感謝の集いを持った。私もその一員なのだが体の衰えや所属教会の都合で出席がかなわなかった。
すると集いの席で書いたのだろう、寄せ書きのあるはがきが昨日届いた。そこには16人の懐かしい名前とともに聖句が書かれていた。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:16~18)。
時宜にかなったよい聖句をいただいたと感謝している。孤独感を強くしている中で、自己の中に篭ってしまいそうな中で、喜ぶこと、祈ること、感謝することを忘れていたことに気付かされたのだった。どんなときにも主にあって喜んでいなさい、祈りを忘れてはなりません、苦しみにも感謝しなさい、それは主が必要としてあなたに与えていることだからです、そう語りかけているような気がしたのだ。
私ははがきを半分に折って胸のポケットにしまった。
ついでに書けば、今朝、ロシア文学者の亀山郁夫さんがNHKの番組で60歳を過ぎて「父を許すことができた」と語っていた。男にとって父はライバルなのである。しかしやがて受け入れる存在でもある。思い出せば、子どもにチンチンがあることを見て、誕生時にライバルが生まれたと感じた私でもあった。
泰然自若、この四字熟語が今心に掲げるべき銘であるかもしれない。

| | コメント (0)

2010年4月28日 (水)

昔の「生徒」へのメール

もう60歳近い昔の「生徒」からメールをもらった。車椅子でどこにでも出掛け、家ではヘルパーさんと積極的にいろいろな料理に挑戦している女性である。メールにはいつも「先生、ちゃんとご飯を食べていますか」と書いてくる温かい心の持ち主でもある。
親しくしていた同じ境遇の方が60歳で亡くなったと伝えてきた。
私はこう返事を書いた。
 
親しい人の死はショックですね。まして同じ境遇の方が亡くなるとその衝撃は大きいですね。
私の属している団体の会員でもみな障害が重くなって、困難を背負って生活をするようになりました。

私もその一人で、今朝は介護保険で世話になっている役場の方と福祉器具の貸与を受けている会社の方が見えて、より負担のかからない生活について話し合いをしました。
主に今日は電動ベッドのレンタルに関して相談したのですが、これには介護度を変更しないといけないので、その申請もしたところです。

それから以前足のむくみがひどいとおっしゃっていましたが今はどうですか。私はリンパマッサージなるものをインターネットで見つけ、それを実践しています。時間がかかるのですが、効果あるようですよ。もしも試してみるお気持ちがあったらお教えします。

では今日はここまでにします。
またメールください。お元気で。

| | コメント (0)

2010年4月26日 (月)

障害を持つ親

障害を持つ親。懸命に子育てをしてようやく成人に子どもたちが達したとき親の障害はより重度になっている。
だが、子どもは従前の親を知ってるからなかなかその実態を把握できないし、認めようとしない。
子どもの世界も、社会がせちがらくなって、夫婦共働きでないと生活がおぼつかなくなっている。親のために休暇を取ることさえままならない。
このような条件の中で障害を持つ親達はますます障害が大きくのしかかってくる。
こんな障害を持つ親はきっと大勢いることだろう。

| | コメント (0)

2010年4月23日 (金)

足を持ち上げる人

車椅子から運転席に移るときには腰を浮かし、体を回転させねばならない。立ち上がれないから車椅子と運転席に手を置いて、腕に力を入れてこの動作を行う。腕の力が弱くなり、痛みもある身にとっては厳しいことだ。
  
日曜の朝、教会の玄関脇に着くと牧師かHさん、あるいはKさんなどが「おはようございます」と言いながら出てきて、車のルーフに載せてある車椅子が降りてくるのを待ってくださる。
そして、私が車椅子に移乗する動作を助けてくれるのである。皆さん、すっかり援助の方法を覚え、まず腰のベルトを持って私の腰を浮かし、車椅子へと引っ張り上げる。その上、足を持ち上げ、フットレストに載せてくれる。ズボンをつかんで引き上げねば載せられない者にとってはこの助けはなんとも有難いことだ。
 
帰りにはこれと逆の方法で助けてくださるのだが、運転席に座った私の足を持ち上げて車内に納めることは私がお願いしたわけではない。最初はKさんが、足元に屈みこんでごく自然にしてくれたのだったが、今では他の方までそうしている。
この援助は教会から帰るときだけいただくものだ。こうして、主の恵だけでなく友の温かな心も頂いて私の一週間は始まる。

| | コメント (0)

2010年4月21日 (水)

祈りの会に出席

祈りの会にしばらくぶりで出席した。祈ることにこがれたのである。
ガラテヤの信徒への手紙はいつの間にか終わって、エフェソの信徒への手紙に移っていた。
今朝は2章の初めを学んだのだったが、そこには私たちが救われたのは行いによるのではなく神の恵みによると信仰の基本が述べられていて、改めて主が信仰の中心におられることを知った。
  
「2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
  
ここで「善い業」とは信仰生活であり、奉仕の業であろう。そのゆえに、信仰生活も奉仕も神のギフトへの感謝の印として献げるものなのだ。教会にも人間関係でのつまずきがあるがそれを越える力は神の恵みへのお返しという意識である。

| | コメント (0)

2010年4月19日 (月)

甘えを許す人

職場時代の朋が電車を乗り継ぎ遠方より訪ねてくださった。有難いことだ。
奥様が用意してくださった筍ご飯をパック詰めにして、割り箸までお持ちなって昼食前にお着きになった。
食事を共にしながら最近開いたというクラス会の様子や父母の会に集った懐かしい面々の様子を伺った。
教師と子どもたち、その保護者との信頼関係が密だった時代のことが彷彿として、よい時を過ごさせてもらったものだと私は当時を思い出していた。
お互いの家庭のことや同僚の最近の様子を話していると時間が早く過ぎた。
帰る時間が近くなった時、私は車椅子の空気を入れてくださいとお願いした。わざわざおいでくださったこの朋にこんなことを頼むのは失礼かもしれないが、私の中にはこの兄への甘えがあった。
思い出すと、兄は修学旅行の引率教員として出かける際に、私が荷物を持つことができないのでご自分のバッグに私のシャツなども入れて旅立ったのだった。
今、一人になって学生時代のように独立して日々を過ごさねばならない中で、甘えの入る余地がなくなっている。空気入れを依頼したこころ、それは甘えの行為であったかもしれない。

| | コメント (0)

2010年4月18日 (日)

付き添うイエス

ルカによる福音書24:13~
ここは二人の弟子がエマオに向かいながら、イエスが十字架に死に、葬られ、女たちが墓に行くとそこにイエスの遺体はなく、仲間たちも同じ経験したことを暗い顔をして話しあっていたという箇所である。
いや、大事なのはこの二人の弟子の会話ではなく、その二人に、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められたことである。
二人は悲しみのあまり心ふさぎ、顔は暗かった。傍に来た人がイエスだと分かるはずもなかった。
私たちも同様なことをしばしばする。悩みに打ちひしがれるとき、困難に直面するとき、暗い顔になって下を向いて日々を過ごす。
だが、そんな時、イエスは私たちの歩みに自らの歩調を合わせて後を歩いてくださっているのだ。
今日の聖書には、イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とある。そして二人と共に泊まるため家に入られ、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったとき二人の目が開かれたと書かれている。
イエスはこうして悩みある人に同伴し、神の言葉を思い出す人の目を開き、望みを与えてくださるのだ。感謝すべき主。

| | コメント (0)

2010年4月17日 (土)

親のこころ

NHK朝のテレビ小説で「ゲゲゲの女房」をやっている。今朝の番組では片手のない男に嫁ぐ娘の結婚式前の親の心情を描いていた。
婚期を遅れた娘の父が密かにネクタイの結び方を娘に教えておかねばならないと思って、策を講じるのだ。夫になる人が自分ではネクタイを結べないだろうと心配しているのである。
私の場合も、妻の家庭では障害のある私に嫁ぐことをわざわざ苦労をしにいくことはないと反対したのだが、テレビの場面のようにきっと娘はたくさんのことを背負うと心配したに違いない。そしてどんなことを教えたことだろう。
表向き「反対」であってもその私の生活を考えて心を砕いたに違いない親たちのことを知って目頭が熱くなった。その娘ももういない。

| | コメント (0)

2010年4月16日 (金)

浮腫が軽くなった!

足のむくみに悩まされていることは以前ここに書いた。手の筋肉が痩せ、痛みがあり、その上、足がむくむために体位の変換がままならず悩んでいるのである。
ところがインターネットという便利な通信手段のおかげで、むくみ(浮腫)に関していろいろな情報を得ることができ、また軽減方法まで入手することができた。
 
まず浮腫の原因だが、どうも肝硬変のせいらしい。慶応大学医学部消化器内科のHPによればアルブミンが低下すると血管内に水分を保持できなくなり、水分が血管から組織に染みでて、足のむくみを起こすのだそうだ。ついでに言うと、肝硬変患者は栄養分の原料の不足、合成力の低下、貯蔵力低下が起こり、体に必要なエネルギー生産が不十分になり、それを補うために自分の筋肉を取り壊すので次第に筋肉が落ちていくともここには書かれていた。
我が身にうまくフィットする話である。
 
こんなことがわかる一方でまた益になる情報もゲットできたのだった。それは組織外にもれた蛋白成分(これが水分を引きつけるという)をうまく循環させるマッサージ法である。
東京・世田谷区の広田内科クリニックのHPにはむくみについて丁寧な解説が掲載されているのだが、私は今回そのうちのセルフマッサージに深い関心を持った。そして、先日来今朝で4日ほど試みてみたのだ。一回のコースを終えるのに20分以上かかるがやっていると体の中にせせらぎのような流れが生じるのがわかる。
その御陰かどうか、まだ断定はしたくないのだが、昨日来、右足の張りが大分軽減し、筋肉も柔らかくなっている。
この変化が本物であって欲しいと密かに願っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年4月14日 (水)

賢治の心

宮沢賢治の作品はなかなかわかりにくいところを持つのだが、そのこころには人を癒すものを持っている。
「小岩井農場」の中で「報告」という詩に出会った。
 
さっき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張って居ります
 
自然に生かされる人間はもっと落ち着いて時間を過ごしていい。
  
私の好きな詩は「岩手山」である。
 
そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くゑぐるもの
ひしめく微塵の深みの底に
きたなく白く澱むもの
 
光が空に乱反射する、その底で岩手山がひとり黙して自己を保持している。
私の見た岩手山は無口な父親のようで、体を横たえ、静かであった。

| | コメント (0)

2010年4月13日 (火)

春の朝

今日は暖かいよい日になった。
 

まずドラッグストアに行った。よく行くコンビニと違って入り口は自動ドアであった。欲しかったシャンプーはすぐに手に入った。
  

国道17号を横切ってカインズホームに向かう。天気がよいせいか次々に車が入ってくる。

まずATMコーナーで現金を引き出した。車椅子に乗っていると画面が見にくくて困るのだが今朝はあらかじめ郵貯銀行に電話をかけて操作方法を聞き出しておいたのでその方向でやってみた。すなわち視覚障害者の方が利用する受話器を併用したのである。おかげで何度も暗証番号を押すことを求められることもなく一度でことが済んだ。
春のシャツも探したのだが衣料品専門店ではないから柄には制限があった。比較的おとなしいデザインを選んでみた。
  
帰り道、店の裏手に回ってみると川沿いの桜は散りはじめていて、道は白い布が敷かれたように見えた。桜の下には菜の花が帯のように咲いていたので手を触れると適度の湿り気があって、手には黄色い模様ができた。

| | コメント (0)

2010年4月12日 (月)

つぶやき

肌寒い日だ。外は雨。
暖かければ外出したかった。電動車椅子に乗ってドラッグストアに行ってシャンプーを買いたかった。最近、ふけが出て仕方がない。夕べは風呂で洗ったのにもう落ちる。
その帰り道、カインズホームに寄ってシャツも探したい。春先に着る明るいシャツが欲しい。同じものばかり着ているので、もうよれよれになったものしかないのだ。
妻がいれば黙っていても買ってくるのに今はそうはいかない。
膝が小さいのでシャツとシャンプーの両方を運んで来られるか心配もあるがなんとかなるだろう。
暖かな春の日が欲しい。

| | コメント (0)

2010年4月11日 (日)

復活節第1聖日礼拝の祈り

 天地を造られた全能の父なる神様。
 今朝も私たちはあなたからの御心のままにこうして御堂に集って参りました。
 どうぞこのひととき、あなたの霊がここに下りたもうて、豊かに礼拝が献げられますよう導き、お守り下さい。
 私たちは過ぐる聖日には、あなたの御子イエス・キリストの復活の喜びに与ることができました。
 あなたはイエスを墓の中に留めることなく、死から起き上がらせ、死に勝利させられました。
 私たちはそのイエスを主と告白して、この一年を主に従って、共にあなたの兄弟姉妹として教会生活を過ごしてまいります。
 どうぞ常に主を覚えて、恵みに感謝して生きる群れとさせて下さいますように。
 今朝、ここに様々の理由で集えない兄弟姉妹もあなたの顧みのうちにこれからの一週間を過ごすことができますように。
 特に病の床にいる方々を支え、希望の光をお与え下さいますようにとお祈り致します。
 あなたの御心を取り次ぐ先生に力を与えてください。
 この祈り、復活の主、イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。
 アーメン

| | コメント (0)

2010年4月 9日 (金)

句会の朝

駅弁をひらけば菜花みどり濃し        島村洋子

草むらの灯となりて福寿草          小沼いく

幾度か春めぐり来てまだ癒ず         清水ひさい

花桃が咲いたよ君も見てごらん       渋沢悠歩

万葉の歌碑たずねれば木々芽ぶく     島村洋子

全山に産毛広がる木の芽時           渋沢悠歩
  
庭に花桃が綿のような白い花を一杯につける朝、4人で句会を開いた。元気にこうして集えることの幸いを思う。
機会をみて句集出版会をしたいね、とも語り合った。

| | コメント (0)

2010年4月 7日 (水)

三寒四温の昨日、今日

病院は暖かかった。用心して上着まで持って行ったのだが、カーディガンも要らないほどだった。
泌尿器科の定期検査を受け、食堂で味噌ラーメンをすすり、帰りに薬をいつもの薬局で受け取って帰ったら午後1時。
そのまま家に入ってしまったら桜を見ずに終わってしまうかもしれないと案じ、少し先の字にある寺に行ってみた。予想したとおり、山門の前には二本の桜が大きな枝を張って見事な花を付けていた。車椅子を下ろせば花の下に行けたのだが、腕の痛みがある身ではそれは無理。車の中から眺めて帰ってきた。
実は、これは昨日の話。今日は朝から日差しがなく、寒い日であった。

| | コメント (0)

2010年4月 5日 (月)

復活祭の喜び

主の復活を喜びましょう。
十字架に死なれたイエスを墓に訪ねた女性達はイエスの遺体を見つけることは出来ませんでした。墓は空だったのです。
イエスは死のままではいません。死を乗り越えて復活されたのです。復活とはもともとは起こすという意味だそうです。神が死者を死から起こすのです。
私たちにも神の愛が注がれています。死で私たちも終わることはありません。神によって起こされるその後の世界を考えて今を神とともに生きねばなりません。
日常生活でいかに悩みが多くても私たちは主の復活にあずかっています。主という同伴者がいます。同行二人、元気に歩みましょう。
 
私たちの教会に昨日は77歳の新たな兄弟が与えられました。イエスを救い主と告白し、洗礼を受けたのです。大きな喜びでした。

| | コメント (0)

2010年4月 1日 (木)

主に捧げる生活 献金

4月になった。教会生活も新しい年度に入る。4日はイースター礼拝である。また新年度最初の献金を捧げるときでもある。
今年は月決献金の額を少し上げようと思う。また4日には誕生日感謝献金、受洗感謝献金も捧げたい。
従来も誕生日の献金は行ってきたが受洗感謝献金は初めてである。
ここにきてなぜか献金を捧げることに喜びを見いだしている。献金は現在では文字どおりお金を捧げるのであるが、本来から言えば自らの生活を捧げることであった。神の前に自分を差し出すのである。
年金生活になって収入も限られてきているし、またひとりになって手にする額も減少した。1割以上の収入を捧げることになるが、神様の恵みへの応答を豊かにすることに喜びを感じて今年も献金を捧げていきたい。

| | コメント (0)

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »