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2009年12月 3日 (木)

「障害を乗り越える」という発想

Photo 気になるテレビ番組を見た。
昨日の朝、NHKで片手を欠くボクシング選手の活躍の様子を伝えているときのことだ。沖縄の高校でボクシング部に生まれつき上肢欠損の生徒が他の生徒に負けないほどの力をつけて懸命に汗を流していた。

だが大会出場選手の発表のとき、その選手の名前は呼ばれなかった。監督はその生徒に、指が二本以上ない者は選手登録できない規則があるからだめだったと伝えた。選手の危険を考えてのことだという。このルールを変えるように努力するとも言っていた。

生徒は黙って監督の言葉に従い、出場する選手の活躍の様子を見詰めていた。

私が気になったのはこのニュースを報じるNHKの姿勢だった。「障害を乗り越えてがんばる生徒」とコメントしていたのだ。「障害」はその人の一部で、それと共に生きていくものではなくて、まだ「乗り越える」、超えていくものという思想が未だこの世にあることを示す結果になっていた。最近「障害」を「障がい」と表記したり、障害を持つ人を「チャレンジッド」などと言ったりするが、「障害」そのものをどう捉えるか、ここがまだおろそかになっていると思わざるを得なかった。

この少年が今後好きなボクシングを続けていくことを願う。「危険だから出場資格を与えない」ということは今まで障害を持つ人の進路に立ちふさがった常套句である。私が応用科学を学ぼうとしたときも大学が入学を断るときにも使ったし、障害を持つ学生が寄宿舎に入ろうとしたときもかつてはこの理由が大手を振るっていた。

やがて監督の言うように高校生のボクシング選手登録の規則も変えられるだろう。

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