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2009年8月28日 (金)

旧約における主の御心

 旧約における主の御心は計りがたい。旧約には王達の権力争いが絶えないのだが、今朝の聖書でも預言者イエフがヨラム王を矢で射殺した凄惨な記事が載っている。ヨラムは殺されその所有地に運んで投げ捨てられるのだった。これは聖書によれば預言の成就なのだという。
また、ヨラムの母であり、アハブの妻であったイゼベルも殺され、「イゼベルの肉は、イズレエルの所有地で犬に食われ、イゼベルの遺体はイズレエルの所有地で畑の面にまかれた肥やしのようになり、これがイゼベルだとはだれも言えなくなる」までに断罪される。

「このようにして、イエフはイスラエルからバアルを滅ぼし去った」のだが、「ただ、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪からは離れず、ベテルとダンにある金の子牛を退けなかった」。(列王記下10:28-29
王による支配は根本的に人の罪からは解き放たれない性格を帯びているのかもしれない。制作年代他の詳細は私には分からないがイザヤ書の冒頭にある(イザヤ24節)「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」というメッセージがこの王達の奢った争いに対する主の変わらぬ告知のような気もする。(この記事は日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会のホームページの記事に負うところが多い)

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