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2009年7月18日 (土)

DVDに見る記念式

Photo  朝まだ早い町の通りには車の往来も少ない。映像はその通りの反対側からシルエット状の教会堂を映し、やがて入り口前にそびえる鐘楼を枠に収めていた。

 2009年7月11日(土)、この日はガンで召された妻の1周年祈念礼拝が神に献げられる日であった。教会の皆さんがさまざまな役割を分担してくださり、会場はすっかり整えられていた。ただ、牧師が司式をし、説教を行う講壇の前に置かれ白い布で覆われた小さなテーブルの上は空であった。

 カメラは教会堂の外の映像からしばしの時を隔ててこのテーブルに焦点を当てていた。
 ワイシャツ姿の長男が額に入った妻の三様の写真と妻の闘病記を綴った2冊の本の配置を迷っているようであった。どのように並べることが母への思いを最もよく表す方法であるのか、その方法探していたのであろう。

 11時、開式。カメラは固定されて正面の牧師のいる講壇をとらえた。前後して高い天井からは降り注ぐように豊かな鐘の音がしばし鳴りつづけていた。
 こうして約50分間の式の様子をカメラはそこに登場する人物や賛美の声を追い続けてくれたのだった。
 説教では牧師は伝道者パウロの生きざまとその死を語った。「パウロは神様によって用いられ伝道に生きたが、やがて時が来てそのいのちを終えるとき『もう、あなたはじゅうぶんに自分の道を走り通した。あなたの人生はこれでよい』と神様によって肯定されました。パウロはこう記しています。『しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。』(使徒言行録20章24)
 『100万回生きた猫』と言う絵本があります。主人公のねこは100万回生き、そして100万回死にましたが悲しいとは思いませんでした。だが、最後に野良ねこになったとき、白い美しいねこに出会い、好きになって、白いねこが多くの子ねこを生んで死んだときに初めて悲しみを知りました。」
 牧師はパウロと絵本をとおして、たった1回生きることの貴さを語り、いのちを惜しむことなく生きたパウロを証し、妻もそうして神様に生かされ、召されたと告げたのだった。
 カメラは語る牧師をクローズアップし、その前景の講壇脇の百合の花を確実にフレームに収めていた。

 礼拝の中ではときどき賛美歌を歌う。わたしは牧師の直前で子どもや孫達と共に席を占めていたから、そしてその後にも親類縁者が多く、教会に馴染みのない者の賛美の声は乏しかった。ところが、カメラがあった位置は会堂の後方で、そこには教会員が多く、しかもいつもの聖日礼拝において賛美歌をろうろうと歌うS兄がカメラ近くにおられたらしく、ビデオ映像は賛美が高らかに、声量豊かに大波が打ち寄せるごとくに満ちる様を収めて余りなかった。
 この日の礼拝に用いる賛美歌は信仰に導かれ、神の国に憩う妻を偲ぶ曲をわたしは選んだのだったが、それは神の見えざる演出と歌い手とカメラ位置の設定という効果によってじゅうぶんに目的を果たされていた。
 カメラは当初の固定式からやがて俯瞰する位置に高められ、列席者一人一人をなめまわす動きまで取り入れていた。そこにはそれぞれに齢を重ねた妻とわたしの縁者、教会の方々が列席している様を捉えていた。どの人物の影も天にある妻に親しさと優しさ、尊敬を寄せているように私には見えた。

 式が終わって参列者一同は教会墓地に出た。そして一輪ずつレモンイエローやピンクのカーネーションを妻の眠る墓に献じた。カメラはこの一連の流れも丁寧に追って下さっていた。
 そして、最後の献花者の動きが消えると、レンズは教会堂の屋根越しに見える鐘楼の先端の鐘をズームアップし、やがて静かにフェイドアウトした。

 この映像を残してくださったH兄にこの記事を書いて感謝の意を伝えたい。

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