« 手作りと既製品の違い | トップページ | 今月の俳句 »

2009年3月26日 (木)

主は私のために

イエスの系譜をたどる聖書の旅はサムエル記上の終わりまで進んだ。途中、3022節以下でこんな記事に出会った。
 
ダビデが敵を追って戦いに出向いた時、彼の兵のなかには疲れでダビデに従って戦場に行くことが出来ず川の脇で荷物のそばに留まった者がいた。やがてダビデは勝利し、帰還する。そのときダビデと共に戦った者の中の一部が「彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない。」と主張する。そのときダビデは言った。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。」「荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。」
 
この話はマタイによる福音書20章にあるぶどう園の農夫のたとえに似ている。こんな話だ。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うとき、まず夜明けに一日につき一デナリオンの約束で労働者をぶどう園に送った。九時ごろにも、十二時ごろと三時ごろにもまた同じようにした。さらにまた五時ごろにも雇い手のない者をその主人は「あなた達も葡萄園に行きなさい」と言って働き場を与えたというのだ。
夕方になって、その日の賃金を払うとき主人は五時ごろに雇われた人にも朝から来た者にも平等に一デナリオンずつ渡したのだった。これでは朝早くから働いた者が不平を言うのも無理はない。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」
だが主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」
 
信仰を第三者の立場から眺めることは誤りであることをこの二つの話は教えている。私は教会で役を担っているのにあの人は礼拝が終わると直ぐに帰っていく。掃除にも来ない人がいる。どうして平等に教会の務めを果たさないのか。こう私たちは思いがちである。だがこれは違う。

信仰は主が一人ひとりに向き合って、その個人に与え給う恵みである。私たちはそれをいただく一人である。荷物のそばにとどまっていた者、最後に雇われた農夫、その人こそが私であることを知らねばならない。

|

« 手作りと既製品の違い | トップページ | 今月の俳句 »

「信仰」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 手作りと既製品の違い | トップページ | 今月の俳句 »