« 何もしない時間 | トップページ | 沢山のいただき物 »

2008年9月14日 (日)

生きることと死すること

今朝の礼拝は「恵老の日礼拝」だった。申命記の終りと使徒言行録の20章(ここはパウロがエルサレムで捕らえられ、やがてローマに送られて死に向かうことの序章である)をテキストに説教がなされた。
モーセは民を率いて奴隷の地エジプトを脱出しカナンに向かったのだが神は約束の地カナンにモーセが入ることを許さなかった。カナンの地が見渡せるピスガの山に導いて、そこで彼のこの世の務めを終わらせたのだった。
パウロも「“霊”に促されてエルサレムに行」く。そこには「投獄と苦難」待ち受けていることを知りながら。そしてこう言う。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」。
人の生きる道と死は神様の計画の中に覚えられている。周囲の者が、いや本人もまだやることがいっぱいある、あっただろうにとか早すぎる死だと思っても、神様は、もう十分に走り通したよ、十分だよとおっしゃってその人を召されるのだ。その上、モーセに約束の地を見せたように信仰を持った者は希望のうちに死することが出来る。
老いを恵みとして受け、生きることも死することも神様の御意志として毎日を生きる者となりたい。妻の召天もそう受け取って慰みを得たい。

|

« 何もしない時間 | トップページ | 沢山のいただき物 »

「信仰」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 何もしない時間 | トップページ | 沢山のいただき物 »