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2008年7月25日 (金)

死の準備教育

教会では洗礼を受ける希望を願い出た者に受洗のための準備がなされる。信仰は自らの力によって勝ち得たものではなく、神の哀れみの姿の結晶であり、神から与えられるものである、教会は神の兄弟姉妹の共同体であり、信仰を告白したものはその関係を受け入れ共にその形成に努めよう、と例えばこのようなことが聖書にはどう記されているかを学んだりする。だから受洗希望者は安心して洗礼式を待つことが出来るのだ。
  
妻が三度目のガン宣言をされたとき、そしてそのガンが骨への転移であることを知らされた時今度は容易ならないことを覚悟していた。日本対癌協会で専門化のアドバイスを受けた結果も残された日々をどう有意義に過ごすかを考えることの重要性の指摘に終わったのだった。
そこで私は牧師に電話をして信仰者への死の準備教育というものの存在を問うた。信仰者にとって死とはなにか、この世の生を終え、神の元へ行くとき神はどう迎えてくださるのか、そもそも地上の寄留者である信仰者が自分の国に帰ることはどんな喜びがあるのか、そうしたことを知りたかったのだ。
ところが聖書には死後のことはほとんど記されていないとのことだった。ヨハネ黙示録に死者は天上で神と共に礼拝をしている姿があるとか永眠者という言葉があるようにそのときまで死者は眠りについているというイメージがあるくらいらしい。
キリスト教を基本としたホスピスではいったいこのあたりをどう具体化しているのだろうという疑問も持ったが調べる余裕はなかった。
死期が迫った者にとってはQOLの充実が大事であるといわれるが受洗者の安心と同様死に行くものの安泰も同様に満たされねばならないだろう。
  
とは言うものの、妻は最後まで、(いや最後には死を受け入れる言葉を出すこともしたが)生きることに望みをかけていた。リハビリを始めることを気にし、家に帰って仕事をしたがっていた。こんな妻に死が迫っていること、その準備教育など出来るわけがなかった。私は面会に行くと初めから終わりまで手を握っていたのだが、その中で、もう十分なことを為し終えたよ、いいものをいっぱい造ったね、と語りかけるのが精一杯であった。
  
妻が天に帰りもう20日になる。恋しさが日に日に募ってならない。

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