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2008年7月18日 (金)

遺体の尊さ

Photoいつもは家族がテーブルを囲んで食事をしたり、子どもたちがトランプをする畳敷きのところに妻の体は横たわっていた。広い居間の一部(四畳半に相当)を高くして車イスでも乗り降りが楽になっているところである。
顔には死者がよくされるように白い布が掛けられている。私はそんなものは必要ないと思うのだが慣例に従ってそうした。
5日の夜中に家に帰り、7日の納棺まで花と聖書と十字架に守られて静かに寝ていたのだ。
かすかに目を開け、唇は微笑をたたえているようだった。
私にはそれは「遺体」ではなく妻のKZ子であった。だから白い布を取り、その体の脇に横になり、「よかったね。家に帰れたね」などと話しかけることもできたのだ。
写真も何枚も撮った。アップで撮った。でもここに掲載するわけにはいかないから別のものをお見せする。
手の甲で頬を撫ぜ、何か話してくれないかな、と言ってもみた。
先日の岩手・宮城大地震ではまだ犠牲者の体が見つかっていない人もいる。大波を受けて沈没した漁師もどうようである。家族はどんなにか早い発見を望んでいることだろう。重さと形を持った遺体は「遺体」ではなく親しい人なのである。
妻との別れで最も辛く、耐え難かったのは火葬場でお棺が炉の中に引き込まれていく時であった。最後の別れをすべくその顔を見るとき「喪主」の方からどうぞ、と促されて、車イスから杖で立ち上がった時、私は顔を覆う透明なビニールをたたきながら「KZ子、またね」と言って泣いた。また天上でいつの日か会えることがせめてもの慰みであった。
  
部屋は以前の通りに復元され5人が食事をする場になっている。その一角の台の上にお骨が置かれ、写真と聖書、花が添えられてある。子どもたちはそこに毎日コップで水をあげ、御飯を供える。仏教ではないのだからそんな必要はないのだが子どもたちのばあちゃんへの思いやりと理解して私は黙認する。
御飯を食べる前に「ばーちゃん、御飯を今から食べるからね」と私が写真に話しかけるとヒカちゃんが「ばーちゃんは見ているんだからわかっているよ」と言った。そうだ、妻は見ていてくれるんだと嬉しかった。

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