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2008年7月

2008年7月30日 (水)

葬儀のこと

 妻和子の葬儀は8日正午から大勢の列席者を得て行われた。その次第は以下のようであった。
  
 前 奏 (黙祷)
 讃 美  493
 聖 書
 祈 祷
 讃 美  522(故人愛唱)
 聖 書  新約聖書 ヨハネによる福音書 1416
      (故人の略歴)
 説 教
 祈 祷
 讃 美  434135
 頒 栄  27
 祝 祷
 後 奏  (黙祷)
   
   (挨拶)
   
   (飾花)

 讃美歌522は個人愛唱と書かれているがこれは私が妻の讃美歌を開いて拾い出したものである。そこにはしおりが挟まっていたので選んでもよいと判断したのだ。

 この歌には世の宝も富も有名な人になることも人の褒めることばもまたいかに美しいものもキリストには替えられません、とある。この方が私に代わって死んだゆえに替えられないと主を讃えている。その人に生かされて、また召されて妻は旅立ったのである。

 説教でも牧師は天にあって妻はいつものように元気に礼拝を捧げているのかもしれない。
 病院に訪ね、そこで祈ったとき神様はかけがいのない存在として一人一人を造ってくださったのだから和子さんもその一人としてお造りになり、命を与えたことを信じていた。
 神は全てを知っておられ、導く方であるから、神様の平安の許にこの姉妹を置いてくださっていることを信じるとおっしゃった。
 妻は歩むべき道を歩み終え神の元へ召されたのだった。

 最後に前夜と同様挨拶をしなければならなかった。でも同じことを言うわけにはいかない。私はこう挨拶した。

 一言ご挨拶をさせていただきます。
 妻和子は7月5日午後10時25分地上の生活を70歳で終えまして神様の下へ帰ってまいりました。この70年のうち42年を姉妹は私と共に生きてくださり、職場の生活、また子供たちとの家庭での生活あるいはまた教会生活を一生懸命に支えてくれたのでありました。私がなにがしかの業を今日までに成し得たとすればその半分はこの妻和子のものであったということができると思います。
 この和子を天に送ることはこの上なく寂しいことでありますが神様が与えてくださったものを神様がまた召されることは神様のご意志でありますのでそれに従わねばなりません。
 今日この旅立ちの式にこのように大勢の皆様が遠路、お忙しい中ご列席くださいましたことに対して心より御礼を申し上げます。ほんとうにありがとうございました。皆様の上にも神様の豊かな恵みがありますようにお祈り申し上げます。

 ありがとうございました。
  
 マイクを持ち、人の前に出ると声が詰まりながらもなんとか挨拶をし終えることが出来るのは長い職歴のせいであろうか。ともかくも無事に終えてよかった。

 この後、棺と共に私は妻の写真を胸にしっかり抱いて火葬場へと向かった。

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2008年7月29日 (火)

魚と蒲団

夏にしては珍しく二晩続きで涼しかった。タオルケット一枚で寝ていたので朝になって目が覚めたほどである。
妻がいればこんな時すぐに押入れの中からもう一枚何か出してくれるのだが自分で動くのも面倒なので我慢した次第である。
  
以前どこかに私は子供のときから魚を食べるのが不得意だと書いたことがある。小骨を取り除くことがなんとも面倒で、私が箸を使うと魚がぐちゃぐちゃになってしまう。それを見られるのがいやなのでお仕舞いには裏表をひっくり返して体裁を保つのが常だ。何故こんなことになったかといえば母のせいである。母が甘やかして私の魚の骨を丹精に取ってくれたからなのだった。
  
寝具を扱うのも同様である。ベッドの上が乱れていてもそれをしっかり整えてから寒くないようにとか寝やすいようにとか意を用いることが面倒である。それをするくらいならそのまま乱れた寝具の中にもぐりこんで寝たほうがいい。
と言っても今までそうしてきたわけではない。妻がいた。彼女は私が寝室に行く前に必ず蒲団や毛布をしっかり整えておいてくれた。そして隅を少しひっくり返して入りやすくしておいてくれたのだ。
私は当たり前のようにそれを見ていた。
  
妻がいなくなって魚ばかりでなく蒲団の扱いでも乱雑さがまかり通ることとなった。

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2008年7月27日 (日)

妻よ、帰れ

妻が残したものをどうしても触りたくなる。処分しなければならないものを区別するのが狙いなのだが心の奥にはもっと深いものがあってともかく関係を持っていたいのかもしれない。
写真のなかには今までに見たこともない若い頃のものがあった。高校を出た直後の何人かの友達と写した初々しい姿の写真だ。私と知り合う少し前の写真には海に行って水着の仲間たちと肩を組んでいるものや、中にはサングラスをかけているものまである。
真っ直ぐに成長し、いっぱいよいものを秘めて青春を生きている尊い女性がそこにはいた。
居間に飾ってある写真も娘の結婚式でとった美しい写真である。そのときは数日後に手術を控えていたのだが生きている喜びを顔いっぱいに現していた。
  
朝起きて居間に行って「おはよう。ばあちゃんまた会ったね」と声をかけるのだが、返事が返ってこない寂しさがわたしの胸を締め付ける。
数日前には亡くなったことがよく理解できていたのにここに来てそれが受け入れられなくなっている。もう一度あの生身の妻が戻ってきて欲しいとふと思ったりするのだ。
毎日疼痛に苦しんだ妻、その妻に帰って欲しいのではない。生きることが楽しくてしかたない元気な彼女が目の前に立って欲しいのである。

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2008年7月25日 (金)

死の準備教育

教会では洗礼を受ける希望を願い出た者に受洗のための準備がなされる。信仰は自らの力によって勝ち得たものではなく、神の哀れみの姿の結晶であり、神から与えられるものである、教会は神の兄弟姉妹の共同体であり、信仰を告白したものはその関係を受け入れ共にその形成に努めよう、と例えばこのようなことが聖書にはどう記されているかを学んだりする。だから受洗希望者は安心して洗礼式を待つことが出来るのだ。
  
妻が三度目のガン宣言をされたとき、そしてそのガンが骨への転移であることを知らされた時今度は容易ならないことを覚悟していた。日本対癌協会で専門化のアドバイスを受けた結果も残された日々をどう有意義に過ごすかを考えることの重要性の指摘に終わったのだった。
そこで私は牧師に電話をして信仰者への死の準備教育というものの存在を問うた。信仰者にとって死とはなにか、この世の生を終え、神の元へ行くとき神はどう迎えてくださるのか、そもそも地上の寄留者である信仰者が自分の国に帰ることはどんな喜びがあるのか、そうしたことを知りたかったのだ。
ところが聖書には死後のことはほとんど記されていないとのことだった。ヨハネ黙示録に死者は天上で神と共に礼拝をしている姿があるとか永眠者という言葉があるようにそのときまで死者は眠りについているというイメージがあるくらいらしい。
キリスト教を基本としたホスピスではいったいこのあたりをどう具体化しているのだろうという疑問も持ったが調べる余裕はなかった。
死期が迫った者にとってはQOLの充実が大事であるといわれるが受洗者の安心と同様死に行くものの安泰も同様に満たされねばならないだろう。
  
とは言うものの、妻は最後まで、(いや最後には死を受け入れる言葉を出すこともしたが)生きることに望みをかけていた。リハビリを始めることを気にし、家に帰って仕事をしたがっていた。こんな妻に死が迫っていること、その準備教育など出来るわけがなかった。私は面会に行くと初めから終わりまで手を握っていたのだが、その中で、もう十分なことを為し終えたよ、いいものをいっぱい造ったね、と語りかけるのが精一杯であった。
  
妻が天に帰りもう20日になる。恋しさが日に日に募ってならない。

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2008年7月21日 (月)

主は牧者 前夜式の様子

7月7日夜7時、教会の鐘が夜の空気を震わせて街に響き渡った。妻和子の前夜式の始まりを告げる鐘であった。その式次第は以下の通りである。

前奏 (黙祷)
讃美  493

讃美  451(故人愛唱)
聖書  旧約聖書・詩篇 2316
    
新約聖書・ヨハネによる福音書 101415
(個人の略歴)
説教
祈祷
讃美  434(1.35
頌栄  27
祝祷
後奏  (黙祷)
(挨拶)
(献花)

当初参列者を70名前後と予想したのだが、なんと140名の方がおいでくださった。教会員、親族はもとより、隣近所の方、コーラスグループの会員、生協でいつも交わっていた方また和子が受洗した教会の古い友達、私の関係ではかつての職場の同僚、大学時代の友人、東京で一緒に信仰生活をした教会の友など数え上げればきりがない。子どもたちの会社関係の上司もわざわざ本庄市までおいでくださった。
 牧師はイエスは牧者であることを説かれ、羊をどんな困難な時にも導いて守ってくださる羊飼いの話をしてイエスを証した。嬉しかったのは和子は私の世話をいつも引き受け、また4人の子どもをどんな時にも支え続けて一生を終えた、これは羊飼いのような行いであったといえると思うと言ってくださったことだ。
 最後の挨拶で私はこう述べて多くの参列者にお礼を言った。

 「先ほど先生がおっしゃってくださいましたように妻和子は三つの教会で信仰生活を送り48年の地上での教会生活を終え7月5日午後10時25分天に召されました。

 振り返ってみますと妻の教会生活は難しい信仰論をたたかわすとか役員として教会形成に携わるとがというものではなく、そうではなくて台所でお茶碗を洗ったり教会のトイレのタオルを持ち帰って洗濯する、あるいはまた集会のお弁当を用意するというように裏方の用事をしながらの教会生活でありました。

 和子は神様が与えられたその奉仕を喜んで引き受けて旅立っていきました。その一人の小さな信仰者の葬りの式にこうして大勢の皆様がおいでくださったことを大変うれしく思います。本当にありがとうございました。」

 参列者を玄関に子ども達と並んでお見送りしたのだが、何人かとは涙を共に流しながら和子を偲び、悲しみを分け合った。

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2008年7月18日 (金)

遺体の尊さ

Photoいつもは家族がテーブルを囲んで食事をしたり、子どもたちがトランプをする畳敷きのところに妻の体は横たわっていた。広い居間の一部(四畳半に相当)を高くして車イスでも乗り降りが楽になっているところである。
顔には死者がよくされるように白い布が掛けられている。私はそんなものは必要ないと思うのだが慣例に従ってそうした。
5日の夜中に家に帰り、7日の納棺まで花と聖書と十字架に守られて静かに寝ていたのだ。
かすかに目を開け、唇は微笑をたたえているようだった。
私にはそれは「遺体」ではなく妻のKZ子であった。だから白い布を取り、その体の脇に横になり、「よかったね。家に帰れたね」などと話しかけることもできたのだ。
写真も何枚も撮った。アップで撮った。でもここに掲載するわけにはいかないから別のものをお見せする。
手の甲で頬を撫ぜ、何か話してくれないかな、と言ってもみた。
先日の岩手・宮城大地震ではまだ犠牲者の体が見つかっていない人もいる。大波を受けて沈没した漁師もどうようである。家族はどんなにか早い発見を望んでいることだろう。重さと形を持った遺体は「遺体」ではなく親しい人なのである。
妻との別れで最も辛く、耐え難かったのは火葬場でお棺が炉の中に引き込まれていく時であった。最後の別れをすべくその顔を見るとき「喪主」の方からどうぞ、と促されて、車イスから杖で立ち上がった時、私は顔を覆う透明なビニールをたたきながら「KZ子、またね」と言って泣いた。また天上でいつの日か会えることがせめてもの慰みであった。
  
部屋は以前の通りに復元され5人が食事をする場になっている。その一角の台の上にお骨が置かれ、写真と聖書、花が添えられてある。子どもたちはそこに毎日コップで水をあげ、御飯を供える。仏教ではないのだからそんな必要はないのだが子どもたちのばあちゃんへの思いやりと理解して私は黙認する。
御飯を食べる前に「ばーちゃん、御飯を今から食べるからね」と私が写真に話しかけるとヒカちゃんが「ばーちゃんは見ているんだからわかっているよ」と言った。そうだ、妻は見ていてくれるんだと嬉しかった。

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2008年7月17日 (木)

人が生きる重さ

風呂に入って居間に行く。下の孫は寝てしまって息子夫婦と小六の孫だけがのんびりテレビを見ている。
「お休み」と挨拶して寝室に入る。一日の終わりである。そのままベッドに入ればの話だが。
何か心残りでそのままベッドに入れない。何段かになった棚の抽斗をちょっとのぞいて妻の残したものを見たくなる。あるいはクローゼットを開けて衣装やら下着類を手にする。
そうなったら簡単に寝ることが出来なくなる。
妻は袋ものが大好きでたくさん持っている。クローゼットの中に掛けてある洋服の下に手を入れるとそこには何種類ものの鞄が潜んでいた。また、布製の風呂敷を袋状にしたものなどがあちこちから顔を出してくる。
抽斗にはノートが入っていた。そのまま捨てるわけにはいかないので開くと年度ごとに日付まで記して医者に支払った額が几帳面に書かれていた。
他の抽斗には子供たちのへそのうが桐の箱に入って納まっているし、いつも悩んでいた足のタコの治療薬や入れ歯の手入れ用の薬などが包帯や絆創膏と一緒に混じって入っていた。
寝る前の慰みに手にした抽斗とクローゼットだけでもこの始末である。納戸や押入れを開けたら子どもたちの学校時代の思い出につながるもの、教会で婦人会の代表をした資料、毎日つけていた日記、そんなものが何十倍もあろう。
ここに一人の人が生きた証がある。人の重さがある。一人がいることは小さな歴史が創造されていることだとつくづく思わされる。

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2008年7月16日 (水)

妻の苦しみ

520日に危篤になってから40日、子どもたちが交代で病室に泊まって妻の看護に当たった。泊まったものはその日の様子を小さなノートに記すようにした。長男の指示らしい。今私はその記録を整理している。キーボードで入力すると腕の痛みが増すので音声入力を使っているのだが、ここに記された妻の様子は余りにも辛く、声にすると思わず喉が詰まって先に進めなくなる。

腰や足の痛みに耐え、襲ってくる吐き気に悩まされ、家に帰ることを希求しながらベッドで過ごしていた姿。精神のバランスを失ってもいた。

この記録を書く子どもたちも辛かったであろう。今更これを再現しても仕方ないのだが、妻がこうして天に召されていったことは事実なのだからしっかり記録に残しておこう。

まだまだ10日間の整理も終わらないのだがそこには例えばこんなことが書かれている。

・涙がこぼれている。お母ちゃん涙こぼしたこと見たことあったっけ?。記憶にあるようなないような。

・「イタイイタイ、足は痛いし腰が痛い」、「痛み止めもらう?」「もういい、飲んでも効かないから。拒否だよ、拒否」

・痛み止め飲んだ。前のより強いやつなんだそうだ。(ゴールドの外袋)

2330分 痛くて薬もらう。「もういいよ 家に帰りたい 早くしてよ」としきりにいう。

・時々変なものが見えるという。時間がさっぱりわからないという。

・のどが渇いてお茶を飲んだ。また吐き気が出てきてお茶は全部吐いてしまった。

・14時から16時30分 目は開いているが話をしない。眠っているような感じでずっと過ごす。

・19時 夕食がきても食べたくないらしい。足も腰も痛いらしい。イタイイタイと繰り返す。

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2008年7月15日 (火)

妻の召される時

前日も遅くまで付き添ったので疲れが蓄積していた。そこで息子たちの配慮で隣の空き部屋のベッドに横になることになった。夜の10時近くのことだ。開けたままの窓からかすかに風が入ってくる。

少し目を閉じて寝入った頃だろうか。最期かも知れないから来たほうがいいと看護師が言っていると誰かに呼ばれた気がする。

子どもたち4人と2人の孫がベッドを囲む。午前1045分には脈が132、酸素が67だったのに夕刻には血圧が74から46に下がり、脈は137、酸素は58、呼吸は23になった。酸素を取り込めない肺を心臓が懸命に働いて助けているようだった。

だが呼ばれて入った部屋のモニターは血圧46から28、酸素47を示し、一人がんばった心臓も69回しか脈を打てなくなっていた。

6時ごろからは呼んでも応えず、手を握っても応答しなくなっていた妻は素人目にもいよいよ終りの時を迎えていることがわかった。午前中、戦闘機のパイロットがつけるような酸素マスクの中で口を開き、胸を大きく波うたせて苦しみながら、私の呼びかけにわずかに頷いていた妻はもう何の痛みも苦しみもない状態に移されたようだ。
皆で見守る中、やがて呼吸が平坦になり、静かになった。続いて脈も数字が消え、波形は水平線のように長くなった。静寂の世界が誕生していた。

看護師が当直の医師を呼び、医師は妻がこの世の生を終えたことを私たちに伝えた。1025分であった。

部屋が一変した。「KZ子、ありがとうね。いいものをいっぱい造って、残してくれてありがとう。皆がここにいるよ。一緒に生きてくれて本当にありがとう。神様、今KZ子が御許に召されました。どうぞ両手でKZ子を抱きしめて受け入れてください。アーメン」

私は嗚咽の中でこう声に出した。

一きりして、臨終を告げた医師と看護師に「ありがとうございました。看護師さんの皆さんにも温かくお世話いただきありがとうございました」と礼を言った。

牧師はすぐに病院駆けつけてくださった。

子どもたちはそれぞれの車で来ていたので、車を持たない娘が妻に付き添うかたちで待ちわびた家に帰った。用意された蒲団に身をおいた妻の顔は安らかで美しかった。

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2008年7月14日 (月)

天に昇る香り

Photo妻は白い布に包まれて窓際にいる。木の小さな十字架と聖書がその前に置かれている。
コップの水はヒカちゃんが替える役割だ。百合、カスミソウ、カーネーションなどの生花は送られてくる度にしおれたものと入れ替えられ、これが三代目である。
脇の写真は娘の結婚式で撮った集合写真から私が取り出して印刷したものだ。働き者の妻にはふさわしくない写真だが親族の間では好評である。
壁の額は昨日付け加えた。妻の最初にして最後の短歌が入っている。いつだったか「時」という題で歌会始の作品募集があった折詠んだものである。
「身障の夫は退職ふるさとで二人静かに時を過ごせり」
忙しい妻にとって貴重な静かな時があったのだろう。
だがそれも続かず遂に天に召された。
誰もいなくなった昼のひと時娘に買ってきてもらったお香をたいて妻と同じ空間にわたしも身をおいている。

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礼拝出席の恵み

8週間ぶりの礼拝出席だった。入り口近くに車を停めると、F兄が「お待ちしていました」と言って車イスを玄関から持ってきてくださった。待たれていた嬉しさを喜んで味わった。
礼拝は前日から泊まりに来てくれていた娘と一緒だった。娘は会員の皆さんに葬儀でお世話になったのでお菓子を持っていったのだがそれを運んだり、車の乗り降りを妻の居なくなった最初の礼拝で助けてくれたのだった。
席に着くとKUさんが「聖書に信仰を全うして天に帰った人には金の冠が与えられると書いてありますね。KA子さんもきっとそうしていますね。」と話しかけてくれた。
  
礼拝の最後の報告の時間、私は礼拝にしばらくぶりで参加できて感謝していること、入院中のお見舞いやお祈りへのお礼、前夜式と告別式で会員の皆さんが労を惜しまず働いてくださったことへのお礼を述べた。そして最後に妻は天に召されましたがこれが永遠の別れでなくて、信仰によって与えられた相見ることのできる希望にこれからも生きて行きたいと挨拶した。
その挨拶が出来たのも、見えるものは滅びるが見えないものは永遠に続く、私たちは主によって永遠の命を与えられていると牧師が頻繁に病床を見舞いながら祈っていたこと、数知れずの信仰の友が天の神様の存在を信じて祈る姿、こうしたことを受けて、ヨブの友人たちのようではなく、私は妻の苦しみの中にも神を信じることが許されていたのだった。

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2008年7月11日 (金)

母ちゃんが母親でよかった

妻の前夜式が七日、告別式が八日に多くの人の祈りと悲しみと援助の中で行われた。その様子や、天に召される時のこと、闘病生活についてまだここに記す気にはまったくなれない。思い出につながること一つ一つが私の胸を締め付け、涙に変えるからである。
 
葬儀の翌日、子どもたちとその伴侶たちは力を出し合って事後の処理に当たってくれた。それぞれが帰途に着いたのは夜も遅くなっていた。
今日は息子の一人が帰宅後送ってくれたメールを紹介してみたい。

休み休み帰ってきて今家に着いたよ。
父ちゃんの手配した教会での葬儀、母ちゃんを天国に送り出すのに、本当に素敵な式でした。素晴しい式で送り出してもらって、母ちゃんも本当に喜んでると思うよ。
父ちゃんと一緒になって、母ちゃんほんとに良かったよね。俺らも、母ちゃんが母親で本当に良かったです。
叔父さんたちも、初日はどうこううるさかったけど、2日目の時はすごく優しくて、父ちゃんや俺達のことをすごく心配してくれてました。
父ちゃん、TR子ちゃん、みんなすごく疲れたよね。
これから、母ちゃんの分も元気に生きていかなきゃいけないんだと思う。母ちゃんに心配かけないように、俺達みんなしっかり生きていこうね。
俺達が元気に楽しく生きていくことで、母ちゃんも安心できるよね。
半年間、病院で母ちゃんが苦しんでる姿をみるのは本当につらかったよ。やっと楽になれて良かったのかもしれないけど、もう会えないのは本当に辛いです。
これからやっと、休みにサッカー行ったり海に行ったりできるようになったけど、今はまだそんな事全然やる気しない。
まだ、役場の手続きとか、葬儀の支払いとか、教会のこととか、やる事いっぱいあるかもしれないけど、無理しないで休み休みやってください。
自分の病院とか、忘れないでちゃんと通って、体大事にしてね。父ちゃんが元気ないと、母ちゃんきっと心配しちゃうよ。
何か手伝ってほしいことがあったら、何でも言ってね。
またみんな連れて、母ちゃんと父ちゃんに会いにいくからね。
ゆっくり休んで疲れとってね。
おやすみ。

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2008年7月 6日 (日)

妻、神の元へ

7月5日午後10時25分、妻、神に召される。
主の御名は誉むべきかな。
妻に感謝。

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2008年7月 4日 (金)

苦しみからの解放

7:3 そうだ/わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。労苦の夜々が定められた報酬。
7:4 横たわればいつ起き上がれるのかと思い/夜の長さに倦み/いらだって夜明けを待つ。
7:5 肉は蛆虫とかさぶたに覆われ/皮膚は割れ、うみが出ている。
これはヨブ記の記事である。ヨブはなぜ自分が苦しみに遭うのかその意味がわからない。そして月日、夜が苦しみの報酬であるという。皮膚は直視に耐えない姿になっている。
 
妻は面会に行くと決って「何がなんだかわからない」と言う。昼も夜も区別なく同じベッドの上で為すこともなく過ごさねばならない。倦怠感だけが体を包む。
今では血小板が一万を切ってしまった。そのため内出血が体のいたるところにある。血圧を測るために腕に締め付けるベルトを巻くとそこの肌は赤紫色になる。背中も直視に耐えないくらい瘢痕が出来てしまった。先日痒いと言うので掻いてあげたのだがそこも痛々しい姿になっていた。
もう十分だ、神様苦しみから解放してくださいと祈りたい。
昨日は実兄が見舞いに来られた。そして励ます意味で「まだやることが残っているぞ。お父ちゃんがいるだろう。先に行ったら義務を放棄することだぞ」と声かけをしたのだが、私は「もう十分にやることはやったよね」と小声で呼びかけていた。

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2008年7月 3日 (木)

兼業は多忙

二日間、朝刊を見るのが夜になった。多忙で朝食をとりながらゆっくりと新聞に目を通すことができなかったのだ。
妻がいなくなってあれこれ皆一人でせねばならず、落ち着かない日が続く。もう5ヶ月を過ぎたから慣れてもいいようなものだがそうはいかない。
一昨日は自分の診察が午前中あり、午後妻を訪ね、その後また歯科に行った。昨日は薬局に処方された薬を電動車椅子に乗って取りに行き、その後車イスをレンタルしている会社の方が来られ、続いて郵貯銀行の人に来てもらって通帳の点検をしてもらったのだ。午後は病院に行ったのだが妻は熟睡しており、起すのもかわいそうなのでしばらくいて帰ってきた。
それらの間には食事も取らねばならない。レンジを使った簡単な食事とはいえ、食器を出したり流しに運んだり、これも面倒なことである。
夕方一通り済んで横になるともう起き上がれなくなる。
今日みたいにこうしてパソコンに静かに向き合える時が持てることは幸せなことである。

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