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2008年1月19日 (土)

我らが赦すごとく

先日に続いて主の祈りについて学ぶ。

主の祈りを祈るときふと祈りを止めてしまうところがある。それは「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」の箇所である。

聖書にはこうある。「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(マタイによる福音書 6:12

いったい私は人を赦しているのか。赦していない自分は赦してくださいと祈れるのかという自責の心が湧き、祈ることを躊躇してしまうのだ。

だが塚本先生はこう言われる。  

「赦しました」の原語は・・・過去における動作を示すものである。「すでに赦した」で「赦そうとする」ではない、「赦しつつある」でもない、「すでに赦した」である。(p.86

 なぜこんな不可能に近いことを信者に求められるのであろうか。私たちは霊的の生命をつなぐため、「わたしたちの罪を赦してください」と日毎に祈らねばならない。

しかしこれを祈るためには、まず他人の罪を赦さねばならない。私たちは苦しい板挟みになるのである。なぜこんな無理なことを要求されるのであろうか。

 この一見不条理な、不可解なところに、神の大なる恵みの知恵が隠されていると私は信ずる。神はこれを以て私たちに、神の愛の何であるかを教えられるのである。私たちはこれによって、人の罪を赦すことのいかに困難であるかを知り、従って、私たちがいかに神の御心をいため苦しめているかを知り、そしてまた、私たちの無限の罪を赦してくださった神の愛の、いかに大きいかを知ることができるのである。(p.90

 他人の罪を赦すことは一番むずかしいことである。自分の力でこれをすることはできない。その力を神に祈り求めるほかはない。そしてこれは自分の罪がいかに大であるか、従ってこの罪を赦してくださった神の愛がいかに大であるかを知って、その愛に励まされることによってのみ、これをすることができる。他人の罪を赦し得ない人は、自分がいかに大きな罪を神に赦されたかを知らない人である。(p.94

上記引用文の赤字のところこそが肝心である。この祈りは神の愛の偉大さとその恩恵によってこそ私たちは人の罪を赦すことができることを知らしめるのだ。

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