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2007年9月

2007年9月30日 (日)

俳句の楽しさ

秋めくやコーヒーカップと哲学書
  
インターネット俳句に投句したこの句にこんな選評をいただいた。こうして交流があると俳句も楽しい。

 コーヒーカップと哲学書の強力タッグは、秋めくという兼題に抵抗なく入っていける・・・ベタだけど、心をくすぐられました。
 まるで昔あった狐狸庵先生のクリープのCМの一場面。なんだか美味しい珈琲が飲みたくなりました。私の場合は哲学書の代わりに藤沢周平。彼の書くものは結構市井の哲学に溢れているから・・。
 普段哲学など興味が無くても、秋になるとなぜだか人生ってなんだろうなんて考えてしまうかも。
コーヒーカップ、哲学書との取り合わせが素敵でした。

 ややつきすぎの感じもしますが、初秋の雰囲気がきっちりと出ていると思います。
 秋の夜ですね。気合入ってますね。しかし哲学書は読了されることなく、また来年にまわされる予感(笑)。

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2007年9月29日 (土)

一行詩

 河内長野市に住む大学時代の友人が「一行詩誌」を送ってきた。会誌が発行されると、いつも送ってくださるのだがどうも一行詩なるものはわかりにくい。文芸一般に言えることかも知れないが作者だけが楽しんでいるような気がしてならないのである。
 ところは今回の作者たちは、それは8人だったが、それぞれに分かりやすい作品を出しておられた。その中からいくつか取らせてもらう。
 1 苛立ちもふんわりと芙蓉の微笑みに捕まる
 2 さやさやさわさわさらさら風が奏でる音楽樹
 3 一言で好い 只真心だけの言葉で、自分と話したい
 4 いつでもどこでもそばにおりますよ 心底そう思わせてきたあなたの存在感
 5 膀胱瘻の身となったが弟その意味がわからず。見ている私がいる
 みんないい作品だ。1、2はこころ洗われる思いがする。4は作者自身そのような存在なのだろう。3の作者は自分を厳しく見詰めている。5、「意味のわからない」弟さんに自分の存在を確認させてもらっている作者の確かさ。

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2007年9月27日 (木)

団子と栗と外国の菓子

食欲の秋にふさわしく我が家には多様な食べ物が今日届けられた。ご機嫌うかがいにきた姉はあんこのたっぷりのったお団子を持ってきてくれたし、世界旅行のインストラクターをしている姪は包装紙の文字も読めない紅茶をたくさん送ってきた。同じ包には日本で言えば綿菓子であろう、絹糸を丸めたような甘い菓子まで入っていた。

午後になると今度は句会仲間の一人の婦人が茹でた栗とワインで煮たイチジクを俳句といっしょに届けてくれたのだった。

あまり食べ物には興味のない私ではあるがこうして豊かな食物をいただくとなんだか生活が広がったような気がしてくる。

今「一人での生活」というエッセイを書いているところなのだが皆からこうして頂き物をするとこのテーマが生活の紹介としてふさわしいかどうかさえ疑問になってくる。

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2007年9月26日 (水)

人の親切

教会に福祉施設の運営に携わっている方がいる。その施設では入所者が作業の一環としてアルミ缶をつぶす活動をしているので教会の人たちは家庭からビールの缶などを持ってきてはその方にお渡ししている。
今日は祈りの会があった。妻は息子が飲んだビール缶を袋いっぱい持っていった。だが、持ち物はそれが主ではない。自分の聖書、賛美歌、私の鞄なども持たねばならない。他に洗濯した教会の洗面所のタオルもかなりあった。
教会に着いたとき、祈りの会に参加する一人の姉妹が自転車でやって来た。そして、両手にいっぱいの荷物を抱えている妻に向かって「お持ちします」と援助の手を差し出してくださった。だが、妻は「大丈夫」と言ってせっかくの申し出を断ったのだった。
これはいつもの妻の姿勢である。「ありがとう」と言って人の親切をいただくことをしないのである。
この頑固さでいくつもの難局を乗り切って生きてきたとはいえ、場面によってはもう少し素直になればいいのにと思いつつ私は彼女の行為を見ている。

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2007年9月25日 (火)

マッサージ器をいただく

ある人から「ファミリーチェアー」をいただいた。ゆったりした大きな椅子に座り、首や肩、背中をローラーでほぐしたり、叩いたり揉んだりすることができるありがたいマッサージ器である。

私のように脊柱が湾曲し体の半分が麻痺していると椅子に掛けていてもあるいは畳に横になっていてもなかなか全身のリラクゼーションを得ることができない。いつもどこかに緊張が残っているのである。

そんな私にとって唯一快適な場所はお風呂である。浴槽の中で体を伸ばすとお湯が私全体を支えてくれて体が軽くなり、あたかも母の胎内にいるような感覚になる。

今度いただいたマッサージ器は体を横にすることもできるので豪華な材質感ともあいまって私をゆったりと受け入れてくれる。昨日などは本読みの途中で眠りにおち気づいたときには1時間が過ぎていた。

使いすぎもよくないらしいのでほどほどにお世話になることにする

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2007年9月24日 (月)

回転寿司

先日の敬老の日、初めて回転寿司なるところに行ってみた。息子たちがどこかご飯を食べに行こうと言うので私が決めたのである。

入り口にはスロープもある大きなお店だった。それでもお客は順番待ちでしばらく待つことになった。

店員が一つの椅子を外してくださり妻と並んで着席した。5、60人ほどの客が楕円形に並ぶ中では寿司を握ったり、味噌汁を運んだりする店員が忙しそうに動き回っていた。

私は自動のお茶くみ機からお茶を入れつつ目の前を流れて来る寿司を目で追い続けた。普通のお寿司屋ではお目にかかれないものもいくつかあったか結局マグロやイカというなじみの皿をとることとなった。

目が不自由な妻にやってくる皿を説明してとるのを助けたにもした。

二人で12皿、いやもう少し多かったかも知れないが、食べた頃には絶えず目の前を動く皿の流れがいささか煩わしくなってきた。二人はまだ一生懸命食べている息子たちを残して一足先に席を立つこととした。
私たちは子ども達に連れられて外食できたことにかすかな喜びを感じて彼らの出てくるのを待った。

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2007年9月23日 (日)

礼拝司会者の祈り

 教会の主なる神様。
 あなたの恵に感謝いたします。あなたは大きな愛で私たちを支えてくださり、導いてくださって今朝も教会に招いてくださいました。心から感謝いたします。
 今から、私たちは心を一つにしてあなたを賛美し、あなたの御心に触れ、祝福をいただこうとしています。どうぞ最後まで心をあなたに向け、心をこめてこの時を過ごすことができますように。
 神様、あなたは私たちを招き、あなたの御用に用いられようとしておられます。あなたからいただいた恵と愛を隣人に現し、共に神様の子どもとして生きるようにと求めておられます。
 それなのに私たちは日々の業にのみ心を向け、この世の喜びと価値のためにだけ多くの時間と力を用いています。
 神様、私たちは今日、一日研修会を持とうとしています。そして「伝道、今私たちにできること!」を共に考え、あなたから与えられている恵に応えたいと願っています。
 どうぞこの時を導き、祝してください。そして、あなたの愛に心から感謝し、喜んであなたへの奉仕ができる教会としてください。
 最後に、今、悩み、苦しみの中にいる友のために祈ります。体に病を負い、病院で痛み・不安のうちに日々を過ごしている方をどうぞ励まし、慰めてください。私たちもそうしますから。また、いろいろな差しさわりで今日の礼拝に来られない人をどうぞ神様が訪ねてくださいますように。
 あなたの御心を取り次ぐ先生を力づけ、聖霊で満たしてください。
 これらの感謝、祈り、願いをわたしたちの主イエス・キリストのお名前によって御前に捧げます。 アーメン

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2007年9月22日 (土)

運動会

かすかに昔の思い出につながるものが残る小学校で孫の運動会があった。使われなくなった石の柱の校門、裏の神社の木立、それは60年前と同じである。
だが、会場風景はすっかり変っていた。公のものかと勘違いするような大きなテントがあちこちに張られ、小さなものもまで含めると運動場はあたかもビーチの如くであった。
そのうえ、前日からトラックの周囲は陣取りのテープがはられ、自由に観戦する場所探しが難しい状況だ。
その中で子どもたちが無心にピストルがなるたびに元気にスタートを繰り返していた。家の孫のヒカちゃんは夕べから興奮気味だったがこれは他のお子さんも同じだろう。それぞれに緊張した顔で走っていた。
しばらくぶりで300ミリ望遠レンズをつけてヒカちゃんを狙ったのだが、同じ服装になるとヒカちゃんを捉えるのは難しかった。
お姉ちゃんの借り物競争を見て早々に帰ってきた。最近めったに外に出ない身で、猛暑の中にとどまるのは耐えられなかったのである。
ともあれ、競技会はいつの世でも人の心を惹きつけるものだ。

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2007年9月20日 (木)

古いノートから 「派遣される者」

マタイによる福音書 10章1節から15節
私たちはこの世に派遣される者である。派遣されることとは。
1、病人を癒し、悪霊を追放し、困難をかかえる人に共感し(understand 下に立つ)、人間回復のドラマに参加すること。
2、収穫の実り(神の国を信じる人のよろこび)に与ること。
3、十字架で挫折し、復活で生き返り、再派遣された弟子のように、私たちも失敗をしながらも主の「失われた羊のところに行きなさい」という言葉に従うこと。
さあ、出かけよう。私たちは主によって遣わされた者なのだから。

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2007年9月19日 (水)

主の恵

祈りの会に出席。しばらくぶりの参加だった。妻の手術、8月中の祈りの会の休止で2ヶ月休んでいたからである。
聖書はコリント人への第二の手紙8章である。ここにはパウロがコリントの教会と和解し、信頼して勧めを行っている様子が書かれている。
パウロは献金も主に捧げる奉仕の業であると述べている。ここで注意したいのは、貧しい者が行う自主的な奉仕は豊かさに代えられるということだ。それはイエスが豊かであったのに貧しくなられたことによって主にあるものが豊かになったことに支えられているのだ。

いつも出席していたSさんが腰の痛みで当分、いや、この先来られそうもないことがなんとも寂しい。だがきっと主はこの悲しみも何らかの喜びに代えてくださるだろう。
 
祈ること、主に聞くことの幸せは大きい。

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2007年9月18日 (火)

更新

肩が痛いのでパソコンを使うのも遠慮している。音声入力という方法もあるのだがキーボードを打つ時の思考の速さとは微妙に違うからこれはあまり使いたくない。
だが、妻の癌治療の様子を最後までお伝えしたくて今日はHP「こころの便り」を更新をした。
治療方法を探していた時の心境とはまったく異なる安心した、平凡なこのごろの様子を最後に付けた。癌日記はひとまずこれまでとしよう。
  
http://homepage3.nifty.com/bridge2/343.html

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2007年9月17日 (月)

敬老の日

先日、小学2年生のヒカちゃんが「少し敬老の日には早いんだけどこれあげる」と言って2個丸いものが入った透明の袋を差し出した。袋の口は紅い色紙で閉じてある。
「児童館で作った入浴剤だよ」と付け足した。硼酸と香料、蜂蜜を使って作ったのだそうだ。
2年生にしては大人びた言い方がおかしかった。いつも児童館ですごし、夜の母親の会議にも付いていくのでこんなことばも覚えるのかもしれなかった。
「ありがとう。これ、夜お風呂に入れるね」。私は喜んで受け取った。
昨夜、開けてみると、白いごつごつした丸い団子のようなものが入っていた。セロファン紙に包まれ、巾着のように綴じた口にはモールが巻かれていた。
風呂に入れるとぶくぶくと泡を出して解けていった。
 
 孫作る入浴剤や敬老日

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2007年9月15日 (土)

花田春兆さん

先日の朝日新聞で花田春兆さんが44年ぶりに句集を出すという記事を読んだ。
花田さんは81歳になる障害の重い方である。しかしとてもウイットに富む方で、今回の記事によると自分の身の上を「妖怪度5」(要介護度5の意)と言っているという。
私とのつながりは在職中に全国研究集会が本校であったときに私のグループの講師としておいでいただいたことによる。障害を持つ人の表現方法として短詩型の俳句は適しているとのご意見をお持ちで、自らも長いこと俳人として活躍してこられた。
研究会では私が障害を持つ生徒の表現指導について理屈ばって長々と発表したのに対し、先生はご自分の体験を冗談を交えながら短く語ってお終いにしてしまわれ、さて残りの時間をどう消化しようかと迷ったのだった。
その後校内で俳句同好会のメンバーが長いこと句会を楽しんだのだが、私たちは作品を先生のところに送ってご指導をいただいた。
先生のように「障害」をよい友であるかの如くにとらえて、付かず離れず生きられたらいいだろう。

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2007年9月14日 (金)

朝祷会

市内の教会が一堂に集って共に祷る会が私の教会で開かれた。
今朝の説教は聖書に書かれている羊の信仰的意味を問うものであった。
アブラハムはその財産である羊と共に神の命令するままに派遣される。
エジプトからの脱出のときには羊の血によって命を保たれ、カナンへ向けた旅に出る。
やがてその地に定住し農業を始める。カナンでは神への捧げものに人々は羊をほふったのだった。
定住した民は財を蓄え、富を求め、やがて王を立て覇権の道をたどる。信仰はないがしろにされ、多くの貧しい人、罪人、差別される人が生じる。
そこに旧約の約束にしたがって救い主イエスが誕生する。羊飼いは真っ先にその喜びに与った。
イエスは羊飼いになり、苦しむ人たちを愛し、導いた。そして、自らが神に捧げられる犠牲の子羊となった。
  
礼拝を終え、一人一人が祈りを捧げ、その後懇談の時を持った。この地に福音がもたらされたのは養蚕が盛んだったことから海外貿易の中心地・横浜とのつながりができたことによるという昔のことも話された。
  
爽やかな秋の朝のよい集会だった。

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2007年9月13日 (木)

めまい

 昨日の夜明け、めまいに襲われた。目を閉じていれば耐えられるが、開眼すると周囲が右から左へと速い速度で流れる。めまい恐怖症の私には大きなショックだった。朝には治まって、食事も取れ、一日をなんとか過ごした。安倍首相の突然の退任という無責任な出来事があったのでそのTVを見たり、夕方には相撲を観戦して他は何もせず一日を送った。
 めまいの原因は私なりに3つ考えている。一つは薬の影響である。その日は整形外科でキシロカインを注射してもらっていた。インターネットで調べると副作用にめまいがある。薬は他に前立腺肥大対応のものを飲んでいる。長い期間服用しているのでこの影響もあるかもしれない。二つ目は生活態度の問題だ。今「カラマーゾフの兄弟」を小さな字で精魂つめて読んでいるし、それにニンテンドーDSの「脳トレ」にはまってしまって始めるとなかなか止められないのだ。これらの影響できっと目の疲れが烈しいのだろう。三つ目。それは視力の左右差のもんだいである。右は手術でよく見えるようになったが左は白内障のために視力が落ちている。
 こんなことが総合的に影響したのだろう。
 めまいの診断や治療は難しい。だから医者には行かない。DSのゲームは止めにして、読書もほどほどに、いや最も目を疲れさせるパソコンも少し制限したほうがいいだろう。

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2007年9月11日 (火)

60周年

Photo 母校の新島学園高等学校が創立60周年を迎えた。それを記念してCDが作製されたということで先日学校関係者が送ってくださった。
私は6期生だから学校の草創期に学んだことになる。
近くの公立校で障害ゆえに入学を断られ、一年後に新島の門をたたいた時に学校はなんら注文をつけることなく受け入れてくれたのだった。
当時、学校には校則等なく、服装も自由だった。新島襄の家紋である根笹のバッチさえつけていればよかった。
先生方も学生歌にあるように「師は我が友」といった感じで、あまり権威を振りかざすこともなかったが、その学歴を見ると驚くものだった。新しい使命を帯びた学校に自らの夢を託して集った教師陣だったのだろう。
今では男女共学になり、校舎も見違えるほど立派になったがはたして私のように障害を持つ者が自由に学べる造りになっているかどうか気がかりである。
60周年を記念して今度は学生会館を建設するとかで、その寄付の依頼文が来た。お世話になった学校なので先日わずかの額を送ったのだが、そこに「バリアフリーに配慮した建物になりますように」と一筆書き添えた。

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俳句 メモ

爽やかやお隣さんが近くなり
ギヤマンの中の石榴の紅さかな
蟋蟀や生きる喜び鳴いている
秋深しハピー、ハピーと風呂に入る
畑中で唐辛子もらう散歩かな
  
感動が伝わりますか?乞う、推敲。

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2007年9月10日 (月)

共産党の戦術転換

共産党が選挙対策を変更するそうだ。従来共産党は小選挙区にもれなく立候補者を立てていたのだが、これからはこれを半減するという。
なぜ勝ち目のない立候補者を立てるのか疑問だった。せいぜい支持者の数を数えるくらいの意味しかもたないだろうし、共産党の自己中心性の現れのようにも感じられ、日本の政治にプラスにならないのではないか常々おかしく思っていたのだ。
今回の変更によって今まで共産党に回っていた票が即他の野党にいくかどうかは判らないが野党が力を増すのに少しは役立つだろう。
社民党もこれに同調し野党がもう少し結束を強めたらよい。民主党がよいとは思わないが、しかし、参議院で多数党になったことによってテロ特措法の延長が危うくなったことに見るように野党が力を増すことは今の政治にとって必要なことである。

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2007年9月 8日 (土)

以心伝心

手紙を書いてテレビの上に載せておく。妻はそれを見つけるとさっさとポストに入れに行く。「暑いから夕方、犬の散歩のときでいいよ」といっても聞かない。早いほうがいいと決めているので置いておくことができないのだ。
風呂に入るとき、私は足につけている補そう具を外す。靴も脱いで一緒にまとめておく。すると彼女は私が出るまでにそれらを寝室まで運んでくれる。ようやく風呂から上がってベッドに行くと、冷蔵庫から出したばかりでまだ氷が入っているボトルが脇においてある。もちろんベッドはタオルが足元に用意されている。
わたしの生活にはこうして妻の手がいっぱい入り込んでいるのだ。先日のように入院されてしまうとこれらを全部自分でしなければならないから、普段の彼女の行為を忘れがちなのだが、行動分析をしたら朝食から寝るまでいったい幾つのことをしてもらっていることだろう。

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2007年9月 7日 (金)

神の愛

 「カラマーゾフの兄弟」の登場人物にゾシマ長老がいる。小説の極前のところで罪を告白した婦人に彼はこういう。

 「何も恐れることはありません。けっして恐れることもありませんし、思い悩むこともないのです。あなたのなかで悔いの念が涸れることさえなければ、神さまは何もかも赦してくださいます。そう、この地上には、真剣に悔いあらためているものを神さまがお赦しにならないほどの罪などありませんし、あるはずもないのです。尽きることのない神の愛を涸れさせてしまうほど大きな罪など、人間に犯せるはずがないのです。それとも、神の愛を超えるような罪が存在しえるとでもいうのでしょうか? 絶えることのない悔いの念にだけ心をくばり、恐れの気持ちなどすっかり追い払ってしまいなさい。信じることです。神さまは、あなたの考えもおよばないぐらいあなたを愛している。たとえあなたが罪に染まり、罪にまみれようと神は愛してくださるということを昔から言われています。天国では、悔い改める一人の人間にまつわる喜びのほうが、十人の心正しい人々に対する喜びよりも大きいとね。」(亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫、p.134)

 神様の愛はなんと大きいものであろう。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)と聖書にはあるが私たちには神様の愛を人の基準で判断してしまう。
 神様の愛を越えるほどの罪を人は犯すことができない、神様の愛は私たちの思いを越えている、この言葉は私を大きく包み込む。

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2007年9月 6日 (木)

かたばみ句会 9月例会

台風の雨を気にしながら例会に参加。
主な句。

悪餓鬼や傘の先にて蛇とらふ                  洋子
ぼこぼこと泉すい込む子の水筒              由太郎
息子等の甲斐甲斐しさよ盆支度              いく
秋めくやコーヒーカップと哲学書          悠歩
観音の笑みふくよかに木下闇                  マサル
いっせいに夜明けを待てり蝉しぐれ      ひさい

女性センターの一室でのひと時の句会。教会以外の方と接する唯一の時である。

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胸の柄

私のシャツの胸には黄色の縞模様の柄がついている。もともとあったものではなく、いつの間にか胸やお腹のところにうっすらと浮き出てくるのだ。下着だけだといいのだが、Yシャツについたりすると喜んではいられない。
理由を種明かしすると、これは食べこぼしのしみなのである。
注意力がなくなったことによるのだろうが食事の際、パンに載せたブルーベリージャムをこぼしたり、トマトを口に入れそこなったりすることが以前より多くなった気がする。
体を前倒しにして食べればたとえこぼしてもテーブルの上に落ちるのだが、腰が悪いと前傾姿勢はとりにくい。椅子に寄りかかってお腹を出す姿勢だから、落ちるものは胸やお腹に載ってしまうことになる。そうするとそこに見事な模様ができてしまうのである。
これも加齢の勲章であろうか。

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2007年9月 5日 (水)

見舞い

近くの病院に二人の姉妹を見舞った。お二人とも80歳を過ぎ、一人は84歳とおっしゃっていた。以前は教会で共に礼拝をしていたのだが、腰を傷め、この2ヶ月ほどは病床にいる。
Sさんは椅子に座りそこなって傷めたという。まだ起き上がることもできず、昼食の世話は近くの会社に勤めるお嬢さんが駆けつけて行い、夕食の時は家にいる上のお嬢さんが来るという。入院してから肺に水が溜まっていることも判り、酸素呼吸もしていた。
この顛末はこちらが聞きだして分かったことだ。Sさんは以前よりもやせて、見開いた目を天井に向けるだけで自分からはお話にならない。二人のお嬢さんがいるのに家庭の仕事は全部自分で切り盛りしていただけに今の状態がショックなのだろう。
  
Iさんは入院までの経過をこちらに話を挿ませない勢いで全部語った。そして、千葉県に住む娘さんの世話を受けるにはもう自分をなくして娘に従わなくてはならない、ということを未練を残しつつ語って聞かせた。今週末には住み慣れた本庄市を離れるという。
  
二人の部屋でそれぞれ祈りをして別れてきたのだが、人生の終末に臨んでこうして重荷を背負うこととなった姉妹方をどうぞ主よ、哀れんでくださいと主に願った。

 

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2007年9月 2日 (日)

ゆだねる

今朝、世界陸上の女子マラソンがあった。土佐選手が三位に入り、北京オリンピックの候補選手に内定した。マラソンは長い距離を自己コントロールしながら苦しみに耐えてがんばらねばならない。それだけに見るものには感動を与える。
 
今朝の説教は「忍耐強く走りぬく」だった。ヘブライ人への手紙12章2節には「信仰の創始者また完成者であるイエス」という言葉がある。信仰の道程は自分が始めるものでもなく、また今朝のマラソンのように自分のがんばりで締めくくるものでもない。私たちは恵によって神にこの歩みを始めさせたいただき、選ばれて道を歩き続けているのだ。神はゴールで冠を用意して待っておられる。だから与えられた道を安心して進もう。
  
90歳になるS姉妹をホームに送ってから帰ってきた。姉妹は「年をとると神様に近いというだけありがたいのよ」とおっしゃって車に乗ってくださった。

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2007年9月 1日 (土)

行ってくるね、ライアン!

ライアンは我が家の愛犬である。昼間は玄関脇にいつもつながれている。
私が玄関を出ると、おもむろに立ち上がって足元にやってくる。そして私がしゃがめないことを知っているから自分で立ち上がってしがみつき、体を撫でてほしいと甘える。
昨日も教会に行こうと外に出たとたん同じことをしてきた。時間がないのでかまってやれないので「どいて」と一声かけた。彼はすぐに下がって道をあけた。わたしは「行ってくるね、待っててね」と言って教会へと向かったのだった。
だが犬に話しかけることが自然になったのは最近のことだ。以前は命令などはしていたが語りかけはしなかったように思う。妻や姉たちが話しかけるのをヘンな思いで見ていただけだった。
犬に限らず、母や姉、妻等の女性方は人間以外のものによく話しかける。その典型がお墓参りの際に見られる墓石への語りかけである。「おじいさん、来たよ。しばらくだったね。」などと言いながら女性陣は墓石を洗っていた。私はどうしてもそんなことをする気にはなれなかったものだ。
だがである。そのわたしもライアンに話しかけることが不思議でなくなった。墓参に行けば墓石にも語りかけるかもしれない。
これはどういう変化なのだろう。

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