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2007年8月16日 (木)

神の計画に参加している私たち

 「傷ついた癒し人」-苦悩する現代社会と牧会者ー(H.J.M.ナウエン著、西垣二一、岸本和世訳 日本基督教団出版局)を読み始めた。その中の一部、「生きた想起者」に以下の文が収められている。この世の苦しみとは何か、牧師、ひいては信仰者の務めはなにかを問うよい文なのでだいぶ長い引用になるがここに紹介する。
 なお、想起とは平たく言えば、あることに思いをいたす、思いを寄せることによって自分の事実とするということである。信仰において例えば十字架を想起するとはイエスの苦しみを思い、その事実を自分に引き寄せることに他ならない。

 牧師の大きな使命は、人間の物語と神の物語とを不断に結びつけることである。私たちは語り継ぐべき一つの物語を受け継いでいる。その物語の中では、日々私たちが聞かされている数多くの痛ましい傷は孤立から解放され、神の私たちに対する関係の一部分として示されるのである。

 癒しとは、私たち人間の傷が、神ご自身の苦難に最も密接に結びついている、ということを明らかにすることを意味している。それだから、イエス・キリストの生きた想起となるということは、私たちの小さな苦しみとイエス・キリストにおける神の苦しみの大いなるみ業との結びつき、私たちのささやかな生活と共にいます神の大いなる働きとの結びつき、を明らかにすることを意味している。私たちに痛みをもたらす、忘れられた思い出を、自己中心的な、個人的な、私的な領域から引き上げることによって、イエス・キリストは私たちの痛みを癒し給うのである。彼はそれを全人類の痛みに結びつけられる。そしてその痛みを自らに引き受け、変え給うたのであった。だから、癒すということは、もともと痛みを取り去ることなのではなく、私たちの痛みはより大いなる痛みの一部であること、私たちの悲しみはより大いなる悲しみの一部であること、私たちの経験は「キリストは必ず苦難を受けて、栄光に入るはずではなかったのか」(ルカ二四・二六)と言われたお方の大いなる経験の一部であることを明らかにすることなのである。人間の歩みを苦難のしもべの歩みに結びつけることによって、私たちは歴史を運命の鎖から救い出し、また私たちの時をクロノスからカイロスへと転換させ、行きあたりばったりにまとめられている一連の出来事や事件を、私たちの生活の中に働かれる神のみ業を知る不断の機会として転化することになるのである。(p.155~156)

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