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2007年4月

2007年4月29日 (日)

同情

安倍首相がブッシュ大統領に会っていわゆる従軍慰安婦問題について、「人間として総理大臣として心から同情している。慰安婦の方々がそういう状況になったことに対して申し訳ない思いだ」と謝罪を表明したという。
この言葉はどこかヘンである。同情という言葉はここでつかう言葉ではない気がするのだ。日本が第三者ならいざ知らず、当事者なのだから、お詫びすると言うべきだろう。
「そういう状況になった」と言う表現もおかしい。
日本の指導者は朝鮮や中国に心からの謝罪をする気持ちがないように見える。その人たちの憲法改正、教育再生論議はよほど注意して聞かねばならない。

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2007年4月27日 (金)

友の便り

Photo_19 五月晴れ友の文読む芝生かな
  
先日一夜を共にした方々に写真を送ったところ二人からお礼の葉書が届いた。よい日だったので郵便受けから出して、芝生のベンチで読んだ。
お一人は80歳になる男性である。最近落語を覚え、国立劇場まで通って勉強しているという。夜の談笑の席でも「転失気」(てんしき=おなら)にまつわる落語を演じて見せた。送った写真が「真打の師匠の如く撮れていてうれしくなりました」とのこと。よかった。
もう一人の女性は「何年間もの長い間素晴らしい先生方との会を持てたことを一生の財産として生きたいと思います」と書いてきた。定年後続けてきた会はかくもよいものだったのだ。
  
葉書を読み終わってから、椅子に座ったままで足元の雑草を抜いた。背中が温かかった。

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2007年4月26日 (木)

よい一日

中学時代の恩師から小さな包みが届いた。中には手紙と小冊子、それに私が中学を出て浪人生活をしていた時恩師に送った手紙が入っていた。

手紙の書き出しはこうである。「久さん 暖かい日が続くと思うと急に寒くなったりしていますがお元気ですか。

いつもご労作やお便りを頂きながら失礼ばかり重ねております。ごめんなさいね。」

そして文末には、身辺整理をしていたら同じ頃学校にいた女先生が平成6年に書いた短歌が見つかったので同封したこと、私の「こころの便り」から「学ばせてもらっている」なるなどと、ていねいな筆致で書き添えられていた。

小冊子はMという年老いた方が「おじいちゃんから孫たちへ」と副題をつけて、東井義雄の人柄を紹介しながらご自分の思いを可愛いお孫さんに伝えることばをしたためたものであった。

Y先生の短歌にはひたむきな生き様が素直に歌われていた。私が帰郷した時にはもう認知症になっておられたY先生である。

 その先生の歌二首

 今朝もまた白き杖持つ若者は駅の階段一気に上がる

 我が口に入る物すべて生命あり天地の恵み自然の摂理

今日はよいいただきものをした日であった。

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2007年4月25日 (水)

学力検査

朝刊には昨日全国的に行われた学力検査の問題が掲載されていた。印刷が薄く、その上文字が小さすぎて読めないが、算数(数学)、国語の問題が数頁にわたって紹介されていた。今度の学力検査がそれだけ社会的に注目されているということだろう。
検査の目的は文科省によると子供たちの実態を知り、教育課程の改善に資するためということらしい。だが、それならば全国的に行わなくても抽出検査でよいはずだ。
一部の批判にあるように、これは学校の格差を明らかにし、教師の能力判定に用いることもできる。また、学校間の競争心をあおり、学力中心の教育を鼓舞するにも一役買うことになるかもしれない。
そうした中で、この検査に異議を唱え、検査に参加しない学校があったことは見逃せない。学力とは何かについてその学校は独自の見解を持っている。また、もう一つの学校は同年齢の子供は同一の学習成果を挙げるものだという前提に異論を挟んでいる。これも傾聴に値する考えである。
教育の世界に画一化は望ましくない。全体化も避けたほうがいい。

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2007年4月23日 (月)

今月の投句

耳垢のポロリ転がる春の宵
  
山笑ふ福音吾らと共にあり
  
スーパーに幟はためき燕来る
  
総会のおわる会堂春温し
  
子ら眠り浅蜊の潮吹き眺めをり
  
教会総会が先日あった。オルガン購入の件があったので例年より時間がかかり疲れた総会だった。しかし、資金の準備方法もしっかり決まったので充実した時となった。
とかく、高齢化や献金額の減少など問題点ばかりがクローズアップされがちであるが、証の会を持つ必要性が指摘されたりしてよい総会になった気がする。
昨日は例年よりも暖かな日で、疲れも出たが、その疲れも心地よいものだった。
若い者は一昨日潮干狩りに行き、まだ浅蜊がクーラーボックスの中にいっぱいいる。

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2007年4月22日 (日)

礼拝司会の祈り

 慈しみに富みたもう、全能の主なる神様。
 過ぐる週日もまた、私たちはあなたからの恵みのうちに過ごさせていただきました。心から感謝いたします。
 そして、今朝、こうしてあなたに連なる兄弟姉妹と交わりを許され、一緒にあなたを讃美し、御ことばに聞く時を与えられました。どうぞこの一時が主の恵に捉えられた豊かな時となりますように。
 神様、あなたは主イエスを十字架にお付けになり、復活をお許しになり、そして、よみがえりの主を私たちにお遣わしくださいました。その上、死に打ち克ったイエスを信じることができるように私たちに幾つかの出来事をお示しになりました。
 あなたにつながっていることも、復活の主イエスを信じることも自分の力ではできない私たちです。また、たちまちのうちにあなたへの信頼が揺らぐ私たちです。しかし、あなたはいつも御手を差し伸べ、子よ、と呼びかけ、御手のなかに捉えていてくださいます。
 どうぞ私たちがあなたの愛を信じ、心安くあなたに従う者であり続けることができますように。この不安と絶望の世の中には、私たちの弱い力ではどうすることもできない事が満ちていますが、あなたは時が至ればこれを解決してくださることを信じ、あなたへの信仰のうちに留まらせてください。
 午後の定期総会の上にもあなたからの導きが豊かにありますようにお祈りいたします。どうぞ教会の中に、教会の周囲に生かされる計画が整いますようにお力をお与えください。
 今日の礼拝に集えない方々の上にあなたが臨んでください。病の床にある方が主を覚えて慰められますように。
 御言葉を取り次ぐ先生を聖霊で満たし、口を滑らかにして語らせてください。
 これらの祈りと感謝、わたしたちの救い主、復活の主イエス・キリストのお名前によって御前に捧げます。 アーメン

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2007年4月20日 (金)

草取り

芝生に座り込んで草取りをした。
息子が孫のテニスに夢中で、最近は芝生の手入れをまったくしていない。垣根に沿って雑草が伸び放題だし、芝のなかにも紫の花をつけた雑草やタンポポがいっぱい生えている。
昼前の温かい時間、思い切って庭に座り込んだ。座ったら立ち上がれるかどうか心配だったがなんとかなるだろう思った。
  
草を抜くのは気持ちよいものだ。草の厚みとザラザラした感触を手に受けながら抜いた。お尻をずらして場所を移動する。カーデガンがじゃまになってきた。草が山を作っていく。
小一時間やっただろうか。顔が火照ってきたのでやめにした。
さて、心配した立ち上がりである。思うようにならない。以前できたことができなくなっている。仕方なし、腰を滑らせて椅子のところまで行き、掴まって立った。
  
部屋に帰って見下ろすと半径1メートルほどの芝生が絨毯のように平だった。

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2007年4月19日 (木)

用いられている方々

三日間出詰めだった。秩父の旅を終え、昨日は前橋市まで定期健診に行ったからである。雨が多く、運転にも気を使っての移動である。しかし、すべてが守られて、今朝は少し明るい日が射すなかゆっくりと朝食をいただいた。
  
全国キリスト教障害者団体協議会の機関誌「キ障協」を7月初めの総会前に出さねばならない。先日何人かにその方の属しておられる会の活動の様子を報告してくださるようにと原稿依頼をしたところ皆さん快諾してくださった。「私がかかわっていますことをお伝えできることは感謝です」と言って下さった方もいる。今朝もAさんが原稿執筆をお受けします、と言って、一緒に教会報、週報などを送ってくださった。週報によると、礼拝は信徒奨励によって行われることもあるようだ。
こうして多くの兄弟姉妹が喜んで主に用いられている。原稿執筆には謝礼は出せない。もちろん教会の奉仕も無償である。ここには、この世と違う形で働く人がいる。

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2007年4月17日 (火)

旧交 現交

Photo_18 一年ぶりにかつての仲間が集う。互いの無事を確認し合い、夕食を共にし、語り合ったひととき。それぞれの方が置かれた状況の中で、豊かに、懸命に生きておられる姿に接するのは美しい。
病を得て手術をした者、語ることがつらいと言いつつ交わりに喜んで参加する者、80歳近くなってなお新たな学びに精進する者、ご自分の童話が韓国語に翻訳されたことを話す者、2年ぶりに参加され、お元気になった笑顔を見せてくださる者、この集いを企画し、全般の世話を喜んでしてくださる者、現職のとき同様に冗舌をふるう者等等。8時半から始まった語りの会は11時半になっても終わることを知らない。
胸を開いて、ご自分の今を語る。ここには青年の熱情がある。わたしの心を燃やす熱きものがあった。

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2007年4月16日 (月)

俳句

耳垢のポロリ転がる春の宵
  
この句は昨日の作。今朝は3月の気候に戻ってしまった。おまけにもうじき雨になるという。これから秩父の美の山に向かう。ゆっくりと参ろう。

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2007年4月15日 (日)

復活が信じられない人へ

イエスの体が墓の中になかったとき女たちは悲しみました。そのとき主は復活してここにはおられないと告げたのは天使でした。
二人の弟子もイエスが十字架に死なれて、エマオという町に向かって歩きながら悲嘆にくれていました。でも二人の弟子は一緒に歩いている方(復活のイエス)から聖書を説き明かされて、パンをイエスからいただき、復活されたことを知り、喜びに満たされました。
イエスの復活を私たちは自分では信じられないのです。イエスの働きかけによって、聖書の教えによって、神の力によって復活は私たちに真実のものとなるのです。

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2007年4月13日 (金)

こんにちは

新学期が始まったばかりなので子供たちの下校時間は早い。一昨日一仕事して外で休んでいると先生に付き添われて子供たちが帰ってきた。わたしはスロープの上から「みんな、お帰り」と声をかけた。ただいま、と言う子もいたし、にぎやかに話しながら通り過ぎて行く子もいた。
みんないなくなって、スロープを下りたところまで行き、草花を見ていると、先まで行った先生が戻って来た。そして、「今日は」、と挨拶された。さらに「堀です。以前先生のお話を多目的ホールでお聞きしました。ご本も読ませていただきました」とおっしゃった。「孫がお世話になります」、わたしもそう言った。
この先生は障害を持つクラスの先生だそうだ。わたしはもっと最近の講話をお伝えしたくなって「たくちゃんがいた」をプリントし、5年生の孫に昨日学校に持っていってもらった。
今日はその堀先生からお手紙があった。ていねいな字でお礼の言葉と共に「今、担当している子どもたちが生き生きとした生活が送れるように努力してまいりたいと思います」と書かれていた。
平凡な田舎の学校で尊い営みが続いているなぁ、とうれしくなってこの日記を書いている。

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2007年4月12日 (木)

なんとなく

Aaa_2 松坂の野球を見てから病院へ妻の意見書を取りに行く。帰り道、ヤマダ電機でインクを買う。役場に意見書を出し、トリセンでイオン水を汲む。
HPを更新。「こころの便り」を数人にFAXで送る。
疲れを覚え書斎を出る。ハルちゃんの算数の宿題をみる。
夜になってヒカちゃんが似顔絵を描いてくれる。ここで元気を取り戻す。
今日はなんとなく一日が終わる。

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2007年4月11日 (水)

農夫である父

今テープを聞きながらこれを書いている。
機関誌「キ障協」の巻頭言にする話をテープでいただいたので文章化する作業をこの何日かしてきた。日本イエスキリスト教団尼崎教会の長谷川宣恵先生の講演である。先生は農夫である父なる神がどんなに愛を持ってわたしたちを守り、世話し、導いてくださるかを力強く語っている。
わたしはこのテープを教会に持っていって聞いてもらおうと思った。だが、先生は関西の方特有の話し方で、材料が多く、あちこちと飛んでいく。礼拝後の限られた時間では聞ききれない。そこでテープの編集をすることにした。
ようやくそれが終わり、今聞き直して何分かかるか計っているのだ。
全国キリスト教障害者団体協議会の代表をしていると全国の多くの方の証に接することができる。これは福音の雨を浴びることで幸せなことと言わねばならない。
  
 山笑う御言葉吾らと共にあり

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2007年4月 9日 (月)

復活のよろこび

主はよみがえられた。ハレルヤー。Pa0_0001

ルカによる福音書24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

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2007年4月 7日 (土)

廊下の壁

07040717img_0426 廊下の壁がにぎやかになった。ネコの版画、点字についての研究発表、大きな木の枝にブランコが下がり子どもたちが乗っている絵、それに私の水彩画などが並んで貼ってあるからだ。孫たちがいつの間にか自分の作品を飾っている。学校の廊下のようだ。

わたしもこれを歓迎している。家が絵でいっぱいになればいいと思っている。もう玄関には三枚の絵があるし、リビングにも同じ数の額がかかっている。

私が絵や写真をあちこちに貼ったり、掲げたりするので孫も遠慮しないで同じことをするのだろう。

在職中、上手でもない字で子供たちの俳句を大書して廊下にいっぱい並べたことを思い出す。

登校した生徒が自分の作品を見つけてうれしそうに立ち止まっていた。

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2007年4月 5日 (木)

一点句

春一番膝掛け掴む車椅子

 インターネット句会でこの句が一票をいただいた。他の方も感想を書いてくださった。ありがたいこと。その様子、以下の如し。

 情景と一緒に明るい雰囲気が伝わって来る一句です。どうやら車椅子の主は身障者ではなく、回復間近の患者さんのようです。分かりやすさを頂きました

 よく見ていて、句にしているなぁと感心しました。
 車椅子だと春一番はことさら大変です。飛ばされないよう膝を抑えている景がパッと浮びました。よく場景が描かれていると思います。
 情景だけを見ると何でもない場面なんですけど、それを何だか赴き深い感じに表現できていて、これぞ俳句って印象を受ける句でした。
 風が吹いたから、ひざ掛け飛ばされそうで因果関係ありありといえばそうです。でも、この句の場合はそれが逆にええんじゃないでしょうか。光景・仕草がありありと見えてきて共感できます。 
 因果関係が見えすぎる気がします。

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2007年4月 4日 (水)

ぶどうの木と枝

ヨハネによる福音書15:5 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

祈りの会で出会った聖句。今朝私はここに安らぎを見た。それは自己努力の苦労からの解放だった。イエスは私たちはイエスにつながっていれば豊かに実を結ぶと教えてくれている。

イエスを離れて一生懸命に実を結ぼうとがんばっていることがどんなに徒労の業か。そこで疲れ果てて自分を見失うことのいかに多いことか。

イエスはぶどうの木。私たちはその枝。枝は木につながっていさえすれば生かされ、よい樹液をいただき、実を結ぶ。

明るい空の下、空気をいっぱいに吸って、木につながって豊かに生きよう。

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2007年4月 2日 (月)

70歳

朝の祈り
主なる神さま。今朝もこうして無事に一日を始めさせていただくことを心から感謝申します。あなたの大きな支えをいただき、70歳の誕生日を迎えることができました。これにはまた数えることができない多くの人の援助をいただいたことを思います。特に長い間生活を共にしてくれているお母ちゃんの日々のあったことを忘れません。子供たちを育て、家庭を築き、あなたにある信仰生活を共々に過ごしてくれました。御心ならどうぞ終わりの日まで2人の生活を共に送らせてください。
今日もヒカちゃんは児童館に、親たちはそれぞれの働き場に向かいました。その道を守り、夕べに無事にお帰しくださいますように。ハルちゃんはわたしたちと今から加須までテニスの試合に出かけます。道を守り、試合のときをお支えください。
教会も新年度を迎え、役員も新しくなりました。一人一人が希望を持って教会に奉仕できますようにお導きください。礼拝に集えない病気の方、見守る方の御側にあなたが臨んでくださいますように。
Photo_15東京にいる子供たちとその家庭に今日も恵みがありますように。
全国のキ障協の友もあなたの御心に留めてください。
今から与えられた食事をいただきます。どうぞ一日の必要な糧として用いてください。
この祈り主の御名を通して御前に捧げます。
  
  加須市までの70分の道程が無事に守られて「むさしの村」に着いた。Photo_16雨が心配だったが曇りの一日だった。ハルちゃんの相手が棄権し戦わず帰ることになってしまった。桜が園内は満開だった。帰途、行田市の忍城を見るべく行ったのだが月曜日で休館。周囲を一巡し、城の写真を撮ったのみ。

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2007年4月 1日 (日)

ユダかペトロか

ユダはイエスを金貨三十枚で売り渡したが、その己の姿に絶望し自殺した。それは彼の実直さゆえであった。ペトロもイエスを否定した。そんな人は知らないと否定した。そして己のその姿に烈しく泣いた。この涙のなかにはイエスの愛に背いたことへの後悔があった。イエスに向けている心があったゆえに泣いたのだった。
私たちは己の力、誠実さに頼って自分を見ると自己否定に行くしかない。ペトロのように己を否定しても主に頼って、主の許しに希望を託す時もう一度立ち直ることができる。

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