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2006年12月

2006年12月31日 (日)

一年の終わり

一年の終わりにあたって、このブログを訪ねてくださった皆様に感謝を申し上げます。小生の日々の息遣いをそれぞれの思いをもって見守ってくださったことと存じますが、そうしていただだくことによってわたしは生かされきました。ありがとうございました。
   
娘Eから昨晩電話があった。結婚式の申し込みにある式場に来ているとのことだった。そしてこの日でいいですか、とある日時を指定した。その会場は入り口に階段があり、またトイレに行く時にも階段を使わないとならないという。娘はこの式場は庭がすてきで気に入っているとも言った。わたしは本当は階段のないところを選んで欲しいのだが、娘の希望を第一にして、「いいよ。階段は何人かに手伝ってもらえばなんとかなるだろうからね。」と返事をした。わたしの不便は一時だ。それよりも一度の結婚式を希望通りのところで挙げさせてあげたい、そんな思いが私の中にはあった。
もう一緒に住んでいるし、結婚届も出しているのがから半年後の結婚式も形式的なものと思いつつも、その日の娘の姿を想像すると心中穏やかでない。

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2006年12月30日 (土)

敗戦

冬の夜敗れし娘連れ帰る
  
息子が孫娘を連れ帰ったのは夜9時前であった。
昨日も寒風が吹き荒れていた。正午前大きなバッグを背負って二人は高速道を使って約一時間の距離をテニスの試合に出かけていった。毎日テニスクラブで練習している成果を見るためにこうして休みの日には試合に出ることをもう一年も続けているのだ。
帰ってきた孫娘には笑顔はなかった。ただ息子はいつものように淡々と「一度も勝てなかった」と多少の笑みを浮かべて言うばかりであった。
5、6年生の子どもが参加する試合だから勝てなくとも仕方ないといえばそれまでなのだが、ある期待を持って参加したのだから二人とも気落ちしているに違いなかった。
多くの時間と金をかけて将来テニスプレーヤーにすべく努力している毎日だがなかなか結果にはつながらない。
また今日も同じ会場で試合があるという。よい結果を出して、笑顔で帰ってきて欲しいものである。

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2006年12月29日 (金)

肩が痛い

ここのところ肩と上腕の痛みが激しくて困っている。この原因の一つには不自然な姿勢でキーボードの操作をしたりマウスを使っていることがある。そしてもう一つは体の変化で補そう具があわなくなってきて、その結果うまく足に体重を掛けることができないことがある。こうなると左足の受けるべき力を右腕でカバーして歩いてしまうのだ。補そう具がしっかりあわないと足にかけた体重が膝のところで前方に抜けていくような気がしてなんとも歩きにくいものである。

シャツに右手を通したり手を伸ばして前のものを取ろうとしても痛いのだから困ったものである。筋肉の炎症をとるローションを塗ったり、湿布薬を使ってもなかなかこの痛みは取れないでいる。
ロボットが全身の関節を自由自在に曲げて体操をして見せたり、倒れてもうまく起き上がっているハイテクの時代、身近なところでは補そう具がぴったり合わないことぐらいで落ち込んでいる私のような人もいることをここに記しておこう。(ちなみにこの文章は音声入力装置を使って書いている。)

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2006年12月27日 (水)

社会体験

午後になってカインズホームに買い物に出かけた。ござが磨り減ってしまったので適当な品を見に行ったのだ。

カインズホームには車いすが用意してある。家の近くにこの店ができるというので私は支配人に車いすを用意するよう提言したところこれが実現したのである。そんなわけで足が弱くなった私も広い店内を苦労しないで動くことができた。

ござは最も奥のコーナーにあった。四畳半用のものが4800円とか2400円と値が付けられている。私が補そう具をつけたままで移動するとすぐにまた傷んでしまうだろうから2400円の安物を買うことにしてそれをワゴンに乗せてもらった。そしてふと後ろを見るとそこには半畳の大きさの、四辺をしっかりと加工されたござがあるではないか。ござといえば四畳半や六畳の部屋用のものと思い込んでいた私にとってこんな商品は予想外なものであった。なるほどこの商品は合理的だし、私の要求にもマッチしている。私は自分の知識の貧弱さを思い知らされた。

もう一つ同様の体験を記せばスラックスの安さである。通路の角に無造作に吊るされているスラックスに目をやるとなんとそこに1900円という値段が付けられているではないか。どこの工場で、労働者がいかほどの賃金で働いて造ったスラックスか知らないが綿100%の商品がこうして1900円で売られている。私にとってはこれは驚きであった。私はこれも購入することにした。

ほんの半時ほどの買い物であったが洗剤やトイレ用マットやパソコン用印刷用紙なども買って妻は1万円弱の支払いをしたようであった。

妻が会計を済ます間、いくつかの商品の間をめぐっているうちに私は目に痛みを感じていた。あまりこのような大型店に来ることのない私にはたくさんの商品から出る化学物質の刺激は強すぎるようであった。このような店で喜んで買い物に興ずる若者たちとはわたしは縁遠い、非社会人間になっているのかもしれない。

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2006年12月25日 (月)

アドベントの日々 25

ろうそくをつける。
 聖句 その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネによる福音書 1の9)
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光がこの世に来た。
礼拝堂の中は暗かったが、ローソクに光が灯るとそれぞれの顔がほのかに浮かび上がった。聖書を朗読する人の前にも幾つかのろうそくがあって、それは神の言葉を照らし出していた。
ヨハネによる福音書は10節、11節でこう続けている。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
ここで言とは光と同じである。光がこの世に来て、光は世にあるのに世は光を認めなかったというのだ。「認める」は掴むと同義語である。イエスが来られた時世はヘロデの世であった。イエスを殺すためにヘロデは二歳以下の幼児を皆殺しにした。光を掴むどころかPhoto_12 光を拒否したのだ。

今の世にもヘロデのような力は大きい。しかし、既に光は来ている。人々の顔を照らして、一人一人の存在を明らかにしてくださっている。この光を大切にし、光に生きるものでありたい。

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2006年12月24日 (日)

アドベントの日々 24

三人目の占星術学者をおく。
 聖句 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイによる福音書 2の12)
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今日は聖日。教会ではクリスマス礼拝を献げた。御子が飼い葉おけの中で誕生したことを感謝しつつ讃美の歌をともに歌った。
礼拝の中で聖餐にも与った。御子の誕生を祝い、どうじに十字架のイエスを思いつつパンと葡萄液をいただいたのである。
このようにしてイエスはその生涯を弱さの中に送られた。
さて、上掲の聖句は占星術の学者がイエスにまみえた後別の道を通って帰っていったことを知らせている。学者たちはもう以前の学者たちではなかった。別の道を歩む人にイエスによって変えられたのだ。イエスに出会うとはこうして今までの生き方と異なる道を歩むことを意味する。
  
家の孫たちにはもうサンタが昨夜やって来た。寝る前にヒカちゃんはやってくるサンタにもてなしようのお菓子を用意していた。
 お茶とパイサンタに備えて孫眠る

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2006年12月23日 (土)

アドベントの日々 23

二人目の占星術学者をおく。
 聖句 彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイによる福音書 2の11)
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学者たちは自分たちが持っている貴重なものを差し出して幼子イエスを拝んだ。乳香は樹脂を乾燥した芳香物質で古代には香料として尊ばれたりまた薬効が著しいので商品としても重要だったと言う。没薬もどうように高価なものであった。三人はこれらをすべて差し出し、自分たちをイエスにあずけたのだ。もう自分たちの箱の中には何も残しておく必要なかった。

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2006年12月22日 (金)

はや投句締め切り日

歳時記を手元に急ぎ6句を作る。
  
小水に三度起きたる冬至かな
  
冬至の日下校の子等や賑やかに
  
杖頼り扉を開けし降誕祭
  
お煮しめを囲んで祝う降誕日
  
懐炉貼り友の讃美に声合はす
  
車椅子後列占めて降誕祭

  

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アドベントの日々 22

占星術学者をひとりおく。
 聖句 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。(マタイによる福音書 2の2)
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わたしたちはこの聖句から何を聞き取るでしょうか。それは救いは誰に与えられるかということです。自分たちは律法を守っている、神に喜ばれる人間だと決めていユダヤの人々でもなく、律法学者でもなく、一見聖書の神様からは遠くにいる他国の学者たちに神の御子は姿を現されたのでした。

学者は当時最高の学問の持ち主でした。でもこの財産は学者たちの救いには役立ちませんでした。学者たちが救いに与れたのは、本当の王に会ってその命にふれることを願っていたからです。救いを必要とすることを認めていたからです。神様は学者が星の専門家でしたので星を通して彼らを招いてくださいました。

わたしたちも星の輝きを心を開いて待ちましょう。神様は国籍や学歴、職業などで人を選ぶのではなく、わたしのところにおいでくださいという声に応えて救い主を送って下さいます。

クリスマスに当たって、星の輝きを待つ人になりたいと思います。

(「こころの便り」第225号 から一部を抜粋、書き改め)

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2006年12月21日 (木)

アドベントの日々 21

らくだをおく。
 聖句  そこで、ラバンは言った。「おいでください。主に祝福されたお方。なぜ、町の外に立っておられるのですか。わたしが、お泊まりになる部屋もらくだの休む場所も整えました。」
その人は家に来て、らくだの鞍をはずした。らくだにはわらと餌が与えられ、その人と従者たちには足を洗う水が運ばれた。(創世記 24の31、32)
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らくだは新約聖書にはほとんど出てこない。上掲の聖句はアブラハムの息子イサクとリベカの結婚にまつわる話の中の一部である。僕がイサクの嫁を探しにらくだを連れて旅に出てリベカに逢い、兄のラバンが僕を家に招くところである。らくだはここでは大事な役を果たしているし又それにふさわしいもてなしも受けている。温かみのある話である。
東方の博士たちがらくだに乗ってベツレヘムにやってくるのは聖劇ではおなじみだがこれは当時らくだが大事な移動手段だったことから生まれた話だろう。

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2006年12月20日 (水)

俳句の楽しみ

ころころと柚子転がりてお湯溢る
  
金柑を揺らして遊ぶ小鳥かな
  
柚子湯と言えば15年ほど前都立病院で入った風呂を思い出す。年末の入院だったので柚子湯が用意されていた。衛生上お湯は湯船いっぱいに張ってあった。そっと入ると、昼間の明るい光に湯がきらめき、こぼれるお湯の表面を柚子が転げまわった。
  
東京から持ってきた金柑の木が大きくなって今年もいっぱいに黄色い実をつけている。今日は穏やかな日だ。鳥たちがやってきて盛んにその実をつついている。その度に実はあちこちと揺れて鳥たちをもてなしているようだ。

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アドベントの日々 20

ろばをおく。
 聖句 見よ、あたなの主が来る。高ぶることなく、ろばに乗って来る。(ゼカリア書 9の9)
    
06120615pa0_0040 9節、10節を掲げる。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」
旧約聖書のこの預言のとおり、イエスはろばに乗ってエルサレムに入られた。王は馬に乗って入城するのに平和の主はよわいろばの背に揺られて来られた。いや、今そうしてわたしたちのところに来ようとしているし、既に来られてもいるのである。

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2006年12月19日 (火)

アドベントの日々 19

牛をおく。
 聖句 牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが豊作をもたらすのは牛の力。(箴言 14の4)
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「牛は羊とともに、重要な家畜でした。ところで箴言によれば、牛は家畜小屋を不潔にするものであったようです。主イエスはその中に身をおかれたのです。」(山下萬里先生の解説の前半から)。

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2006年12月18日 (月)

アドベントの日々 18

二匹目の羊をおく。
 聖句 見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカによる福音書 15の4)
  
  06120615pa0_0042 この話は当時多くの人から救いに与れないと思われていた徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たときのことである。権威を持っていたファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスがこの罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしていると不平を言いだしただ。そこで、イエスはこうおっしゃった。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
このたとえ話は聞く人が自分をどう捉えるかによって意味が変わってくる。見失われた羊は自分ではないと思うと九十九匹を残していることが気になるが、自分こそこの一匹だと認識するとわたしのために喜んでくださる人がいることがこの上ない慰めになるだろう。

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2006年12月17日 (日)

アドベントの日々 17

羊を一匹おく。
 聖句 わたしはよい羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(ヨハネによる福音書 10の14)
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羊は弱いものである。狼にひとたまりもなくやられてしまう。だから仲間と共に生活し、お互いをかばい合う。その弱い羊を守るのが羊飼いだ。羊飼いは夜も寝ずに羊の番をしているのである。もしも一匹がいなくなっても彼にはすぐにどの羊が居なくなったのかが分かり、彼は探しに出る。
羊も飼い主を知って、安心してその人に従っている。
間もなく誕生するわたしたちの救い主イエスはこの羊飼いだとおっしゃる。わたしたちも羊飼いと羊のようにお互いに知り合うものとなりたい。なお聖書では「知る」とは脳で記憶するということではなく、お互い直接触れ合い、しっかりした関係を持つことを意味している。

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2006年12月16日 (土)

アドベントの日々 16

三人目の羊飼いをおく。
 聖句 羊飼いたちは、この幼子(おさなご)について天使が話してくれたことを人々に知らせた。(ルカによる福音書 2の17)
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聖書には知らせを受けた人々は「不思議に思った」とだけ書かれている。教養のない、律法にも通じていない羊飼いの言うことはすぐには信じられなかったのかもしれない。しかし羊飼いたちはしっかりと与えられた使命を果たしたのだ。神からのメッセージを中継するこの役割を成し遂げたのである。それはきっと自分たちがメッセージを喜んだからに違いない。わたしたちも人がなかなか信仰の話を聞いてくれないとこぼす前に自分自身が信仰に生きることを喜びとしているかを問うてみたい。

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2006年12月15日 (金)

アドベントの日々 15

二人目の羊飼いを立てる。
 聖句 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美した。(ルカによる福音書 2の20)
  
06120615pa0_0045 天使はこう言っていた。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
羊飼いたちは天使の言葉どおり乳飲み子が飼い葉桶の中で寝ているのに接したのだ。もう確信するしかない。救い主の誕生である。
今はこの救い主イエスが誕生した時間の続きの中にある。どんなに暗い事件が起こっていても神のご配慮の中にあるのだ。アドベントはこの中に生きてやがてイエスの再来を心して待つときでもあることを覚えたい。

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2006年12月14日 (木)

アドベントの日々 14

一番目の羊飼いをおく。
 聖句 羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。」と話し合った。(ルカによる福音書2の15)06120615pa0_0046
  
羊飼いたちは天使のお告げを聞いて、すぐ行動を起こします。み言葉(神からの告知)は、ただ聞かれるためのものではありません。感動させるだけでもありません。わたしたちを決断と行動へと導きます。(山下萬里さんの解説から)

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体が消えていく

二時過ぎにトイレに起きた時右半身が火照っていた。布団に帰ったがその火照りは増すばかりのようにみえた。一気に不安が体中を襲う。体が消えていく。不安が膨張し体がない。

暗闇の中で原因を考える。机をストーブの前に移動したためにその熱が残っているのか。泌尿器の薬の副作用か。先日受けたインフルエンザの予防接種のためだろうか。それともちょうど二年前の年末に高熱を出した時と同じように血液中に好酸球が増加したのかもしれない。それなら再び入院になるのだろか。

そして対処法を試みた。自律訓練法をやってみる。だが体の重みを取り戻せない。枕もとのボトルからお茶を飲む。

アブラムハムは神の命じるままに旅に出た。行く先にどんなことが待っているか分からないが今を神の心に生きるために旅立った。わたしはこの先の結果どうなるかを考える必要はない。今ベッドに横たわっているだけでいいではないか。そう言い聞かせてみる。

あせる中、多分これは心理的な要素が強いのだとも自分を説得する。外界と接したらいい。妻には迷惑だが灯りをつけることにした。そして熱を測った。五度九分しかない。妻を起こしてラジオを借りる。これで気を紛らわせよう。でもだめだ。相変わらず自分がいる感覚に乏しい。妻が血圧計を持ってきた。計るが特別高いわけでもない。

そうこうするうちに落ち着きを取り戻していた。太った重い体が布団の中に居る感覚を取り戻したのだ。

なにが起こったのか今朝になってもわからない。二年に一度くらいこんなことがある。

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2006年12月13日 (水)

アドベントの日々 12

イエスをヨセフとマリアの間に。
 聖句 ところば彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカによる福音書 2の6から7)
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イエスがどこで生まれたかが学者の間では問題になっているという。ガリラヤの村ナザレの住人であればナザレで生まれたとするのがわかりやすい。ところが聖書は皇帝アウグストの人口調査の勅令のためにヨセフが生まれ故郷のベツレヘムに帰った時のこととしている。それはヨセフがダヴィデの家系につながるものであることを知らせるためであったそうだ。
わたしたちにはこの問題はあまり関係ない。わたしたちのところにお生まれになった、大勢の人が明るい光の中で豪華な食事を楽しむ宿でなくて、一人で寂しく暮らす粗末なところに生まれてくださった、こう信じられるかどうか、このことが重要である。

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2006年12月12日 (火)

アドベントの日々 13

二人目の天使をおく。
 聖句 天子は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」 (ルカによる福音書2の10)
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もう少し長く聖書を引用しよう。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。』天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」

羊飼いはつらい、寂しい時を過ごしていただろう。皆が寝静まった夜に羊の番をして起きて働かなくてはならないのだ。そこに天使の声が響く。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と。
天使は羊飼いを選んで喜びのメッセージを伝えたかのようだ。つらい、寂しい時を持っている者を神は用いてくださる。つらさは天への架け橋である。

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2006年12月11日 (月)

アドベントの日々 11

マリア、ヨセフを家畜小屋の中に入れる
 聖句 宿屋には彼らの泊まる場所がなかった。(ルカによる福音書 2の7)
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イエスの宣教の方向性は世のしいたげられた人(障害を持つ人、貧しい人、娼婦)などから始まって女性、子どもたちへ向かっているとわたしの教会の牧師は常に語る。それはイエスの誕生の時、既に決定されていたのかもしれない。神は家畜小屋の中にイエスを生まれさせる形でこの世に係わってこられたのだ。
今、「祈りの会」で聖書を読んでいるのだが、コリント人への第一の手紙には知識に富む者、豊かに食事にあずかれる者が登場し、教会を混乱させている様子が出てくる。パウロはこのことを諌め、弱さ、愚かさ、貧しさこそ主が用いたもう教会の大事な部分であるという。
主イエスが家畜小屋の中に生まれたもたことをもう一度思い起こしたい。

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2006年12月10日 (日)

アドベントの日々 10

ヨセフをマリアのそばに立てる。
 聖句 主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」 (マタイによる福音書 1の20)06120615pa0_0049_1
  
先日の聖句では天使がマリアに受胎を告知したことを記していたがマタイ記者はヨセフに現れたとしている。マタイによる福音書はヨセフの系列、すなわちダヴィデの家系を重視しているからである。この家系に連なるヨセフのいいなずけマリアが妊娠しているとなるとヨセフはイスラエルの中で存在できない者になってしまう。
ヨセフはひそかにマリアと縁を切ることを心に決めた。その時上掲の聖句が示される。
こうして聖書はユダヤ人キリスト者にも異邦人キリスト者にもイエスが世界の転換者として来たりたもうことを告げている。
  

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礼拝の祈り

 全能の主なる神様。

 過ぐる週日々を恵みのうちに過ごさせてくださりありがとうございました。

 そして、今日またこうしてあなたに連なる兄弟姉妹と交わりを許され、一緒にあなたを讃美し、御ことばに聞く時を与えられました。心から感謝いたします。

 わたしたちはあなたの御子を待ち望むアドベントの第二週を迎えました。

 今、この世は混乱と絶望の中にあります。力の政治が世界を支配し、人々の心は断ち切られています。

 神様、あなたは二〇〇〇年前、同じ苦しみを持つ世界に御子イエス・キリストをお下しになりました。

 主は今も生きて働いておられます。どうぞわたしたちが救いの主イエスを心から受け入れることができますように、その準備のためにアドベントの時を整えてください。

 どうぞ苦しみの中にある人々のために祈る心をお与えください。一人で悲しんでいる人に慰めをお与えください。その方の上にあなた御自身が留まってください。

 今から御言葉をいただきます。取り次ぐ先生を聖霊で満たし、語る力を与えてください。この場に集えない人々にも恵みをお与えください。

 これらの祈りと感謝、わたしたちの救い主、復活の主イエス・キリストのお名前によって御前に捧げます。 アーメン

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2006年12月 9日 (土)

アドベントの日々 9

天使をマリアのそばに立てる
 聖句 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。」 (ルカによる福音書 1の30)
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未婚の女性が身ごもるなどということは死罪に当たることだったろう。だからマリアは天使から「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。」と言われた時「どうしてそんなことがありえましょう」と驚きの声をあげたのだ。だが天使の更なることばを受けてマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と信仰を告白する。
身の安全を自らの力で守るのではなくて、向きを神の方向に変え、仰ぎ見てそこに己の生活を賭ける、クリスマスはこのことをわたしたちに促している。

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2006年12月 8日 (金)

アドベントの日々 5

二本目の木を立てる。
 聖句 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育つ。
(イザヤ書 11の1)06113010pa0_0030

イザヤ書のこの部分は北イスラエル滅亡の危機のときを語っている。アッシリアという強国によって王国が滅びようとしているのだ。そのときにイザヤは救いのメッセージを送る。しかもそれはアッシリアよりも頑強な王が出現するというのではない。その逆である。エッサイの株とはモアブの女ルツ(ルツは異邦人である)につながる家系であって、社会的にも低い地位に置かれていたかも知れない、この家系からやがて若枝が育つというのだ。イザヤ書はここで続けて「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。」と語るのである。イエスの誕生の予告である。

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インターネット休止の日

火曜日、病院から帰ってブログを更新しようとしたら木曜日の午後までメインテナンスで使用できないとのこと。日記が書けなくなり、こうりゅう広場の更新もあきらめねばならなくなった。その上、水曜日にはモデムが故障しインターネット接続が不可になる。
今日、ソフトバンクから新しいモデムが届きようやくこうして書き込みができるようになった次第である。
お陰でこの3日間は旅行にでも出たようなのんびりした日を送ることができた。メールをチェックするでもなし、あちこちホームページを見歩くわけでなし、本読みと磨り減った靴修理に時間を使い、訪ねてこられた友と歓談して時間をつぶすことができたのだ。
  
それはそれとして火曜日に作った原稿があるのでここに載せておくことにする。
      
ヤマダ電機にUSAハブを買いに入ったときはもう緊張はとうに過ぎていた。病院ではPSAの結果にも問題なく尿もきれいだから今の薬を二か月分出しましょうと言われ簡単に診察が終わっていたのだった。
昨今は大型電気店も親切で、窓口でほしい品を告げると商品を探して持ってきてくれる。ハブはそうして簡単に買うことができた。
気分がよいので藤岡の町を回って靴カバーを買うことにした。以前買ったのだが一度も使わないうちにどこかに仕舞い無くしてしまったからだ。靴屋さんは魚屋の角を曲がると少し先にある。おじさんが一人で靴修理もしている店である。店先に車を停めて、妻が下りて買ってきた。以前のものとは違うがまあいいことにした。
帰ろうと車を出すと3軒先に「豆大福」と墨書した紙の貼ってある菓子屋があった。白い羽二重のような餅の中に豆が黒々と入っている様子を思うとつい食べたくなってまた停車。二個求める。

家内が夕飯のおかずを買っている間、車の中で食すと、大福餅は柔らかく口の中で動き回った。

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2006年12月 4日 (月)

アドベントの日々 4

木を一本立てる
 聖句 主の木々、主の植えたレバノン杉は豊かに育つ。(詩篇 104の16)
  
 06113010pa0_0031 もう少し先まで詩篇を引用しよう。
「主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ちそこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。
主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。あなたが闇を置かれると夜になり森の獣は皆、忍び出てくる。若獅子は餌食を求めてほえ神に食べ物を求める。
太陽が輝き昇ると彼らは帰って行きそれぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。」
 創造主のなさったことはすばらしい。造られたものは皆それぞれに豊かに育ち、そのものらしく完全になり、生命を喜び歌い、調和を保つ。人は仕事を楽しみ満足して家路につく。こう詩人は歌う。
 しかし注意したいのはこの賛歌が苦しみの中にある人によって歌われたことだ。35節で「どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ、主に逆らう者がもはや跡を絶つように」と詩人は祈っているのである。
 今の世も同様である。わたしたちも苦しみの中にあっても主を信頼し、主の造られた世界の回復を祈りたい。
 

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2006年12月 3日 (日)

アドベントの日々 3

家畜小屋の屋根をのせる。
 聖句 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネによる福音書 1の14)06113010pa0_0032
  
 昨日はエズラ記からよいことばをいただいた。これにはゆりのきキリスト教会の牧師さんの助けがあってのことだ。エズラ記の理解を深めるためにホームページ検索をしたところこの教会に出会ったのである。教会堂もなく、ビルの2階の一室で礼拝を守っている教会らしいが説教は力に満ちていた。
 今日の聖句。山下さんの解説によると「宿る」とは「幕屋を張ること」だという。イスラエルの民は旅で幕屋を張って神と共にカナンへと進んだ。粗末な幕屋だがそこに神はおられたのだ。今ことばである神はイエスという肉の形をとってこの世に宿る時をわたしたちは迎えようとしている。

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2006年12月 2日 (土)

アドベントの日々 2

第2日 家畜小屋の壁を立てる。
 聖句 大いなる神の神殿に来てみますと、それは切り石で建てられ、壁には板が張られ、工事は熱心に進められ、彼らの手によって完成は間近に迫っておりました。(エズラ記5の8)
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バビロン捕囚から帰ったイスラエルの民は神殿の建設にとりかかりますが様々な妨害にあいました。しかし、神の御手は彼らを守ります。既に神の御心は用意されていたのです。上記の聖句はそれを表しています。困難の中にも神は救いを用意されています。中学生が自ら死を選ぶような困難な社会、教育基本法の改定を政府が推し進める昨今ですがイスラエルの民が神を礼拝する場を求めたように、そして神がそれを助けたようにわたしたちも神を信じ、祈りを捧げて正義の実現を祈り続けましょう。

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2006年12月 1日 (金)

アドベントの日々1

教会のOさんから「木製アドベント・カレンダー形式のミニ聖誕セット」をいただいた。ヨベル社製のものである。解説は山下萬里氏が書いている。
イエスの誕生が一か月先に迫った今、このセットを組み立てて体感的に喜びに与ろうと思う。一日一場面ごとにこの広場に紹介するので読者の皆さんも共にご参加ください。
  
 第一日 家畜小屋の土台をおく。
  聖句 家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。(詩篇 118の22)06113010pa0_0034_1

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