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2006年7月 6日 (木)

坐れる礼拝堂

0017jpg_jpgsmall  忙しい日程が終わった。その時わたしの中には一つの願いが生まれていた。開会礼拝をしてくださった島津晃牧師の教会を訪ねたい、礼拝堂を見たい、このことだった。
 島津先生は初日の説教でマルコによる福音書5章から病に苦しむ男の癒しを語った。悪霊に取りつかれたゲラサの人をイエスが癒す話である。
 「汚れた霊に取りつかれた」男が墓場を住まいとしており、昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていたという。
 島津師はこの男には家族もあったであろう、愛も受けていたかもしれないとおっしゃる。しかし、例えば現代のストレスによる障害のような何らかの原因で安心の場が奪われ、彼の心に悪霊が入り込むこととなったのだ。男は人間性を捨てがたく、叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。今の若い人に見られるリストカットのような自傷行為だと先生は言う。
 イエスはこの男を癒す。そして、男の「一緒に行きたいと」いう願いを断り、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」とおっしゃったのである。負担をかけた家族、差別された地域に戻ることはつらいことだったがイエスにいただいた救いの確信がこの男を導いただろうと島津先生はわれわれに告げた。
 この話をした先生の教会は入り口に段差がまったくなく、水が来たらひとたまりもなく入り込んでしまうだろうとのことだ。また、会堂の三分の一は寝て礼拝ができるように椅子ではなく高床のフロアーになっているという。十何人かの人が集う礼拝だが、ここでもう椅子に坐っては礼拝ができない人が何人も横たわって主との交わりに与るのだ。

 こんな現実を見てみたいと思うのは当然だろう。先生に申し出ると快く受けてくださり、数人でおじゃました。確かに話の通りの会堂だった。小さくて、華美なところはまったくないが、教会が人とある、この地にあるということを実感させる開放的な、よい教会だった。一緒にうかがった者皆が、感激し、フロアーに坐って写真を撮った。

 その後、先生は近くのお蕎麦屋さんに案内してくださった。終わって友の一人を村井駅に送る途中、松本病院の前に止まった。県立病院だというが地方の病院らしく塗装も薄くなっていた。思えばここは島崎光正さんが召されたところでもあった。

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