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2006年6月16日 (金)

送られてきた雑誌

 友人のHさんがいつもキリスト教雑誌「共助」を送って下さる。先日も5月号が届いた。今回の特集は教育基本法をベースにしている。

 全体を通して読ませていただき、教育基本法の改定に危惧を抱く方がかくも真剣に学びの時を持っておられることに心強さを覚えたのだが、この雑誌で私の心に響いたのは以下の数行であった。

 「教育基本法制定に中心的な責任を担った田中耕太郎が、法制定の前提として、その基礎にどういう思いと基本的な考え方を持っていたか。そこに注目することは『自然法』を大事にすることにつながる姿勢であると思いますが、この点について林竹二はその著 『教育亡国』の中で(二二一ページ)次のように述べています。『田中耕太郎にはおそらくカトリックの信仰に結びつくものであったろうが、教育の本質について、それは国家以前のものだという確固たる信念があった。彼は『新憲法と文化』(五五頁)の中で、教育の本質について、こう述べている。

   教育は一般文化現象と同じく、私的、民間的性質を有して居り、本来国家の活動の範囲外に位するものである。それは本来国家的起源のものではない。教育者と被教育者との関係-教育関係-は芸術家と作品との間のものと同様に、極めて個人的の関係であり、そこに国家の介入を許さないのである。このことは教育の最も本源的な関係である親子関係及び学校教育が沿革上私塾的のものから発達した事実に想到すれば明瞭である。教育の国家的独占は、教育を国策の手段と見るナチ的、ファシスト的又は共産主義的理念の所産に外ならない。」(「共助」2006年5月号 27頁 )

 特にこの中で「教育者と被教育者との関係は極めて個人的の関係であり」という叙述は私の教育論と全く一致するところである。教育問題を論ずるときには教師と生徒の間でどのような実践が展開されたかを抜きにしては議論は成立しない。その意味からいうと教育基本法を教育実践に生かすという志向は逆であって、教師はまず、己の信ずる授業観、児童・生徒観に則って教育関係を成立しなければならない。その教師は児童・生徒という個を重んずる人、人を信頼する人、平和でありたい人、自らもよりよい人間になろうとする人でなければならないだろう。その教師が子どもとよい関係を結ぼうとする時、それを妨害する事態が生じるとき、いや既に教育現場では多くの困難が起きているのだが、教師と子どもを守るもの、それこそが教育基本法ではないのか。だからこそ、為政者は改定を試み、心ある人はそれを阻もうとしているのだ。

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