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2006年4月27日 (木)

いのちを喜ぶ

 「みちのくコスモスの会」から機関紙をいただいた。この会は東北地方の障害を持つキリスト者の集まりである。代表は小田嶋義幸さん。兄はリュウマチの後遺症で手足のほとんどの機能を失っているが、北上の地で福祉の担い手として一戦で働いている。そこにわたしは信仰の強い力を見る思いがしている。
    
 今回送られてきた機関紙の巻頭言には盛岡松園教会牧師坐間豊先生の「キリストのとき、恵みのとき、いのちを喜ぶ」という説教が掲載されている。すばらしいメッセージである。これはわたしだけが受けたのではもったいない。小田嶋さん、坐間先生のお許しを得たので以下に紹介することにする。
    

「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。」 (ヨハネによる福音書九章二節) 

 或る若い受刑者から、「中学の時、母親が男に殺された。やり返そうとしない父親がふがいなく、自分はぐれた」と聞かされました。色々と話したあと、「情けなく思っていた父親ですけど、戻っで来いと言ってます。あのとき、父親が相手の男を殺(や)っていたら、俺にはもう帰る所が無かったですね。親父が我慢してくれたこと、今の俺には誇りです。」こう気づいてくれて、うれしかった。この気づきは、実に「貴い」です。そう気づくのに、相当時間がかかったにしても。
 冒頭の引用は、或る目の見えない人が人々に「本人の罪のせいか、親の罪のせいか」と、問い続けられてきた言葉です。これからも過去を問われ続け、責め続けられ、退けられて行くはずでした。時が未来に向かって進んでも、彼は少しも過去から動き出せません。疎外と自己否定のみが、彼の存在の証です。
 
ところが、イエス・キリストは彼を過去から解放しました。共に歩む神とそのみ業を喜ぶ者に、彼を変えました。主は言われます、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 (三節)
 
 彼の時はいっきに動き出します。それは未来に向かいます。大いなる目標を目指してです。それは、主イエスによって、 「見えるようになった」からです。(七節)
  気づかなかったことを気づくようになり、見えないものは見えるようになったという体験は、貴いものです。それも単なる発見ではありません。愛され、受け入れられ、神さまと共に歩める自分を知ったのです。その喜びがひととおりでないのは、よく分かります。
 
だから、神さまと共に歩み出すのに、とき既に遅し、は無いのです。 そのときからその人の人生が変わるのです。何と美しいことでしょう。そのような体験を持てる人は、何と幸いでしょう。
  十字架の痛みをこらえ死を受け入れたキリストは、自己を見失っていた私たちに、その勝利の復活によっていのちの道を示し、共に歩むよう招いて下さいます。私たちは信仰によりキリストによって、過去に固まったままの自分の時が動き出したのに、気づきました。神の恵みの時を刻む証人にされました。どなたも、キリストと共に歩む者たちです。この幸いを喜び、証ししましょう。

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