2017年7月15日 (土)

主にある教会 祈り

ご在天の父なる神さま。

あなたは新しい週の初め、私たちをこうしてこの本庄教会に招いてくださいました。私たちはあなたの御手が招くままに喜んで集ってまいりましいた。こうして集うことができることは大きな喜びであり、感謝です。ありがとうございます。

あなたは私たちを恵みをもってこの世から選び出してくださいました。そして、教会という体の一部にしてくださいました。どうぞ、体が一つであるように私たちを一つにしてください。そして、あなたが私たちを愛されましたようにお互いを愛し合う者としてください。そして、何よりも私たちがあなたの愛を知ることができたこの幸いをあなたを未だ知らない世に伝えることをなさしめてください。

今から先生の口を通してあなたの活ける言葉をいただきます。どうぞ、私たちがあなたの言葉によって潤い、励まされ、勇気を持ってこの世の歩みを続けていくことができますように。

 

望みながらもこの豊かな礼拝に連なることのできない多くの友がおられます。その友の上にもあなたの恵みが豊かにありますように。

全国各地にある教会の礼拝の祈りが私たちの祈りと共にあなたの許に届きますように。

この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン

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2017年6月 8日 (木)

困難と救い

先日、高校進学が近くの高校で閉ざされた私に救いの道を与えたN高校の想い出を文章に書いた。そして、そこには人を神様からの賜り物として大事にする思想があったとも綴った。
その印刷物を高校時代の友人に送ったところ、彼はその高校の教師とも特別なつながりを持っていた人物なのだが、その彼から喜びの声ともう一つ、私の知らなかった事実が知らされた。それは私の入学は必ずしも教師一同の賛意の内に実現したものではなかったということであった。
もう65年も前の出来事であるからさして驚きの事実ではなかったが、私はどこかにいつも社会知らずの幼稚性があることを再認識したのだった。
と同時に、私は自分の人生においてその節目ごとに拒否と愛とを幾度も経験したことに思い馳せたのだった。
高校入学、大学入学、そして就職、結婚、その時々に必ず障壁が立ちふさがった。しかし、私はそこをくぐり抜けて今こうして人生の終わりに生きている。それは、その大切な時期に決まって私を生かす手が差し伸べられたということである。神の御手がそこにいたどなたかの上に臨んでその働きを助けたに違いないのだ。

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2017年6月 6日 (火)

家事の慰み

昼はラーメン。マルちゃん正麺を簡単鍋で3分ほど茹でて、あらかじめ溶かしてある汁に入れるだけでできる。とは言っても右手が利かなくなっているから、鍋の取っ手を持つのも、丼に入れるのも左である。万一、膝の上にでもこぼしたら大やけど。そこは慎重にやらねばならない。
乾燥具材を入れて彩りを豊かにしたこともあったが、簡単が第一。素面で十分である。

しばらくして、ズボンの裾をまつった。脚を持ち上げる時、いつも裾を掴んで引っ張るので裾がほつれてしまったのだ。
長い針に黒糸を通し、縫っていく。目も荒く、針を刺すところも一定しないので酔っぱらいの足跡のような仕上がりである。でも、これでよい。
午前中は新島襄伝を読み、目が疲れていた。そんな時間が多い生活の中でこうした家事はこの世に生きていることを実感させてくれる一時でもある。

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2017年5月 3日 (水)

言葉の力

友人があるチャプレンのメッセージの載ったカソリック系の病院のパンフレットを送ってくれた。そこには「様々な手」と題して手が日常で、また人の生い立ちの中で様々な働きをしている様子が丹念に書かれていた。差し伸べられた命を抱きしめた手、服を着た手、祈るために使った手、涙を拭う手、夫を抱いた手、おむつを替えたり、洗ったり、しぼったり、乾かしたり、たたんだ手。・・・・自分の親、配偶者を見送り葬った手、自分の顔を手で包みこみ、慰めた手。
 こう書いたあと、筆者は「この手は私がどこへ行ったか、何をしたかのしるしです。・・・私の生涯を表している手です」と段落を締めている。
 そして、その後の段落で「私たち個人個人は置かれたところで手を使って、やさしい社会で生活できるように努めたいものです。手は使うほど、手を培って人々のために仕えやすくなります。手は使うためにあるのです。手を差し伸べて歩みたいものです」とこの文章を終えている。
 私は一人ひとりに与えられているその人の手をこんなに丁寧に見つめた文章を初めてみた気がする。人との関わりを取り持ってくれる手。筆者の言うとおり、神様から与えられている手を人に差し伸べて温かい輪を形作りたいものである。
 私は今日のタイトルを「言葉の力」とした。それはチャプレンのB・D・Sさんの言葉の持つ力に揺り動かされたからである。言葉はまさに力なのだ。

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2017年4月29日 (土)

復活節の祈り

ご在天の父なる神さま。

今朝、こうして兄弟姉妹と共にあなたの家に招かれましたことに心から感謝致します。

神さま、私たちは今、あなたの御子のご復活に感謝する復活節の中を歩んでいます。

主は死んで、葬られた後、復活なされ、悲しみの中にいる弟子たち、逃げ去った弟子の許に御自らそのお体をお示しになられました。

今、私たちのところにもあなたが共におられることを心から信じることができますように。その手の釘の跡や脇腹にある穴を確かめることなく、あなたの臨在を信じる私たちでありますように。

そして、子どもが親を疑うことなく、無心に欲しいものをねだり、手に入れるまで求め続けるように私たちもあなたに信頼し、祈り求める者とならせてください。

今から疋田先生の口を通して活ける言葉をいただきます。

どうぞここにおられない友の上にも同じ恵みがありますように。

全国各地にある教会の平和を求める祈りがあなたの許に届き、あなたの平和が地上にも実現されますように。

この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン

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2017年4月25日 (火)

条件付けられて

ある刺激が与えられてそれに反応した時、心地よい報酬がもらえると、生物はその刺激に自然と同じ反応を返していくようになる。すなわち条件付けが成立するのだ。
これから紹介する話は実はこんな固い説明が必要な話ではない。
私は肝臓の機能が落ちているので毎食後スティックに入った薬を服用している。もう5年は超えているだろう。スティックを力のなくなった指でなんとか開き、上を向いて飲み込む動作を何年もやっているというわけである。
さて、先日何か飲みたくなった。インスタントコーヒー、緑茶、リンゴジュース、どれもいやだ。ふとコーヒースティックが目についた。よし、今まで飲んだことがないこれにしようと決めた。早速、ハサミを使ってスティックを破った。その時、私の手はその中身をカップに持っていかなかったのだった。なんと驚くことに口へと運んだのだ。条件付けが起こったのである。
慌てて洗面所に走り、吐き出し、何度も口を洗浄したが、洗面台は赤茶けた色を簡単には消してくれなかった。
笑えない出来事の顛末である。

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2017年4月24日 (月)

子どものようになる

聖書のマタイによる福音書18章にはこうある。
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
聖書は前後関係を考えながら読まねばならないから、この箇所にはこの箇所の特有の意味があるだろう。
だからこれから記す解釈は私個人の置かれた場所からのものといっていい。
子どもは欲しいものがあれば親に遠慮なしに要求する。ひと目構わす地べたに座り込んでも欲しいものを賣る店の前を去ろうとはしない。翻って私たちは己の願いをかくまで神さまに祈ることがあろうか。祈りの課題を設けても、祈り終わると、それでよしとはしていないだろうか。
子どもがそうまでして親に訴えるのは親への信頼が強いからだといえる。親は豊かで、願えば叶えられる力の持ち主だと信じているのである。
だから、大人の私たちが熱心に神さまに祈らないのは神さまの心の大きさ、その慈悲、愛の深さを心底信じていないとも考えられる。
聖書を毎朝読み、祈り、礼拝を捧げる信仰生活を送っている私であるが、今朝は「子どものように」というイエスの一言に信じる心のありようを省みる必要を思わされることとなった。

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2017年4月 6日 (木)

机の花

書斎の机の上に花が飾られた。赤い花弁が鮮やかなベコニアであろうか。これは誕生日の祝に駆けつけてくれた三男が持ってきた花の一鉢である。昨夜長男がかごに入った鉢を分けてその一つを書斎に持ってきたのである。お陰でニュートラルな書斎の雰囲気が少し潤ったような気がする。
長男は黙っていろいろと気を遣ってくれている。例えば、勤めに出かける前、それまで4チャンネルだったテレビを1チャンネルに変えていくのだ。その上、字幕の設定まですることさえある。8時から始まるテレビ小説を私が毎日観ていることをしっているし、その中で交わされる会話が聞き取りにくい耳に私が最近なってきたことも分かってのことである。
妻がいなくなって生活の中で行うこまごまとしたことに他人から気遣ってもらう機会が少なくなっている現在、こうした小さな配慮は嬉しいものである。
ついでにもう一つの配慮を挙げてみる。それは私の朝の楽しみの一つである新聞読みへの気遣いである。私は小一時間食事の後で新聞を読むのだが、その新聞は私が居間に行く前にポストから長男夫婦のどちらかが取ってきてテーブルに載せておいてくれる。その時、長男だった場合は折込チラシを抜き取って新聞だけを置いてくれるのである。小さな心遣いであるが私はそれにホッと心が和んでその後の時を過すことが出来るのである。

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2017年3月31日 (金)

牧師送別の祈り

ご在天の父なる神さま。あなたに祈りを捧げる時を与えられましたことに感謝致します。 あなたがあなたのご意思によって○野牧師を十九年の長きにわたってこのH教会であなたの御用に当たらせてくださったことに感謝を捧げます。

 先生は私たちが愛する、大切な人をあなたの許に送らねばならない時でさえ、この礼拝は人を崇める時ではありませんと無骨にも決まって式の冒頭におっしゃいましいた。 ですから、私たちも先生を讃えることはしません。

 先生の口を通していただいたあなたの御言葉に心からの賛美を捧げます。

 あなたは先生の口を用いて救いの歴史を教えて下さいました。

 苦役に弱り果てて、生きる望みを失ったエジプトの民があなたに導かれ、荒野を歩む時に、あるときは水を与え、あるときはマナを降らせて民を導いたことを、私たちは自分の救いと重ねて聞く事の幸いに与りました。 週ごとに与えられるその恵みよって毎日の困難な旅をあなたの所へ向かって歩むことができたのです。

 地区集会では先日ヨシュア記を先生の解き明かしによって最後の章を学び終えました。そこではヨシュアが民を約束のイスラエルの地に導いて後、あなたの許に還ったことを教えられました。

 H教会での限りある奉仕を終えて、新しい生活に入る○野先生をこれからも支え、導いてください。どうぞ、先生のご家庭があなたによって守られますように。 この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

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2017年3月11日 (土)

新たな教会のための祈り

私たちの主なる天の神様、あなたの聖名を賛美いたします。

年度末のこの朝、こうして今日もあなたにある兄弟姉妹の皆様と共にあなたの臨みたもうこの御堂に招いてくださり心から感謝致します。

あなたは世々その慈愛の御心をもって私たちを導き、励まし、守ってくださいました。

今、私たちの教会は新しい歩みを始めようとしております。この時、心からの祈りを捧げます。

神様、教会に御言葉を豊かに注いでください。

集う者が御言葉に喜んで耳を傾けるようにお導きください。心を合わせて御言葉を聞く集いにしてください。
 御言葉に生かされ、皆で助け合い、支え合う教会にしてください。
 いただいた喜びをひろく伝える教会にしてください。

今日は午後新しい牧者を招聘するための臨時教会総会が予定されています。その時があなたによって祝され、導かれますように。

神様、今日ここに集えない多くの兄弟姉妹も共に祈りの輪の中に加えてくださいますように。

この祈り、十字架の主、イエス・キリストのお名前を通して身元に捧げます。  アーメ


この祈りは先日の礼拝で司会者の私が祈った祈りである。

この3月末で現在の牧者E先生が引退し、4月からは新たな牧者を迎えようとしている今の教会。

私が20年前にこの教会に東京の教会から転会して来たときは、教会暦に沿った行事が催され、それへの参加者も多くいた。新年の餅つきには会堂の外で杵を振り上げ、会員の一人が運んできた臼をご婦人たちが取り囲んで餅を返したりしたものだ。

秋に行われるバザーには近隣の常連客が押しかけて賑やかであった。

教会学校もあったのでその日には大人の礼拝より早く教会に行き、私も定期的に説教奉仕をさせてもらっていた。

さらに、婦人会、壮年会が月一度の例会を持ち、礼拝後の教会がすぐに空になることはなかったのだった。

また、教会では地区集会なるものを持って、市内とその周辺で聖書の学びと祈りの会を月に一度第3週の朝守っていた。その一つである我が家での集会には多い時には7、8名の方が参加していたと記憶する。

 

ところが、餅つきの行事が廃止され、バザーは「教会フェスティバル」となって数年続いたが今年から取りやめになったし、婦人会と壮年会が統合して出来た「聖書と交わりの会」の出席者も固定されてしまった。

教会学校に集う子どもはここ数年全くない。

地区集会は我が家だけとなり、3、4名の参加者である。

最愛の妻はこの移り変わりの途上において召されていった。それは敬愛するT兄においてもそうであった。また、年老いて礼拝参加ができなくなっている方も多い。

牧者と会員の関係にも何度か障害が生じたことは確かであった。

 

しかし、神様の建てられた教会は依然としてこの地にあり続ける。そして、礼拝は聖日ごとに一日も絶えることなく神様に捧げられている。

先の祈りはこうした中での祈りである。新たな牧者を迎えるに当たっての教会の祈り、この世的に言えば教会の目標とでも言えるものだ。

 

教会は神様の救いの御心が豊かに示される、伝えられる世界である。その世界はあらかじめ神様によって選ばれた者の共同体である。

それ故、語られる言葉は聖書に保存されている神の言葉の忠実な伝達でなくてはならない。また、神様が導いた歴史を証しするものでなくてはならない。

人間の業の賛美や人間を聖化する言葉は礼拝には馴染まないだろう。

その言葉を私たちは顔を上げて待ち臨み、耳、目、体全体を用いて受け容れ、感謝して受け容れたいと思う。アーメンと言いつつ喜びたいと願う。

御心は言語で語られだけではない。聖餐というパンと葡萄酒(葡萄液)を用いた儀式を通しても与えられる。イエスが十字架に架かって割かれた体、流された血潮、それが今も十字架に苦しみたもう姿として、具体性を持って示されるのだ。身体を生きる私たちに食物という形で示される主の愛と苦しみ、これに聖餐を通して与りたいと思う。

先に教会は選ばれた者の共同体であると言った。神はいつも私たちに「あなたがた」と呼びかけてくださっている。エジプトから「民」として導き出されたように私たちは家族として神に愛されているのである。だから、教会は説教を通して伝えられる言葉をそこに集う一人ひとりが、皆十分に聞くことが出来るようにお互いが心を用いねばならないだろう。知恵のある者も、そうでない者も、年を重ねた者も、若い者も、また、体に不自由を持つ者もそうでない者も、一緒に主の前に出ることの出来る教会でありたい。

そうした教会には豊かな、愛に満ちた交わりが生まれるに違いない。笑顔が満ち、温かな挨拶が飛び交い、一人ひとりが必要とされる共同体が誕生するだろう。

人は喜びが体内に満ちるとそれを表現したいと望むものである。それは教会の行事の伝道集会として形を成すかもしれない。教会案内のチラシとして配布されるかもしれない。あるいはまた、フェスティバルという形をとって周囲の人たちと喜びの饗宴を共にすることもあろう。

 

神様、どうぞ御言葉を教会に響かせてください。感謝して御言葉を受け入れる私たちに生れ代わらせてください。喜びにあふれる教会にしてください。証しする教会にしてください。

主の御名によって祈ります。

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