2017年9月15日 (金)

選ばれた者の祈り

ご在天の父なる神さま。

あなたは新しい週の初め、私たちをこうしてこの教会に招いてくださいました。あなたが臨みたもうこの集いに加われることはなんという喜びでしょう。

神様、私たちは先日栗○登○姉妹をあなたの元に送りました。どうぞ、今朝は既にあなたの元に召された兄弟姉妹共々、あなたの御栄を賛美し、御声にあずかる事ができますように。

神様、私たちは毎日、聖書日課によってあなたの御声に聞く幸いをいただいています。先日は使徒言行録によって「私たちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことの証人です」との御言葉をいただきました。あなたは復活の主イエスを他ならない「私たちに対して」現してくださったとも言われます。そして、そのイエスを力強く証しするようにと「私たちに」お命じになったと聖書は記しています。

どうぞ、神様、私たちがあなたの言葉をしっかりと受けながら日々信仰に生きる者でありますように。礼拝後に持たれます一日研修会において聖書に聞く心が増し加わりますようにお支えください。

今から先生の口を通してあなたの御言葉を頂きますが、あなたに選ばれた私達への言葉として、聞くことができますように。

礼拝に連なることのできない多くの友がおられます。その友の上にもあなたの恵みが豊かにありますように。

この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン

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2017年8月 9日 (水)

旧友の疎遠

以前はなにかと連絡を取り合い、交わりを交わしていた旧友が一人、二人と疎遠になり最近はその数がめっきり少なくなってしまった。
競馬をこよなく愛したMさんが亡くなって、その兄を一緒に支えていたO女史がその理由も告げずに私の交際範囲から出ていったのが最初だった。
信仰の友Hさんは控えめな方だから自分からは発信してくることはあまりなかったが、それでも私が個人通信を送るとなにかと返事を返したものだった。私よりも年長の兄だから体もきつくなっていることは十分に予想されるのだが、それにしても寂しい限りである。
職場で共に働き、定年後も最近まで電話で互いの生活ぶりを語り合った数人もその声に接する機会が減っている。
そんな中、大学時代の友Wは体の不調を書き留めた私の個人通信を自分の体に併せて丁寧に読んで、長々とメールを書いてきてくれる。また、職場でなにかと世話になったSさんは秋には我が家においでくださると言うし、H女史はご自分の聖書の学びの様子や豊かな生活振りを手紙にして送ってきてくれている。
疎遠になった友の健康を願いながら、交わりのある友を大切にしつつ日々を送ることに満足を覚えることでよしとしよう。

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2017年7月15日 (土)

主にある教会 祈り

ご在天の父なる神さま。

あなたは新しい週の初め、私たちをこうしてこの本庄教会に招いてくださいました。私たちはあなたの御手が招くままに喜んで集ってまいりましいた。こうして集うことができることは大きな喜びであり、感謝です。ありがとうございます。

あなたは私たちを恵みをもってこの世から選び出してくださいました。そして、教会という体の一部にしてくださいました。どうぞ、体が一つであるように私たちを一つにしてください。そして、あなたが私たちを愛されましたようにお互いを愛し合う者としてください。そして、何よりも私たちがあなたの愛を知ることができたこの幸いをあなたを未だ知らない世に伝えることをなさしめてください。

今から先生の口を通してあなたの活ける言葉をいただきます。どうぞ、私たちがあなたの言葉によって潤い、励まされ、勇気を持ってこの世の歩みを続けていくことができますように。

 

望みながらもこの豊かな礼拝に連なることのできない多くの友がおられます。その友の上にもあなたの恵みが豊かにありますように。

全国各地にある教会の礼拝の祈りが私たちの祈りと共にあなたの許に届きますように。

この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン

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2017年6月 8日 (木)

困難と救い

先日、高校進学が近くの高校で閉ざされた私に救いの道を与えたN高校の想い出を文章に書いた。そして、そこには人を神様からの賜り物として大事にする思想があったとも綴った。
その印刷物を高校時代の友人に送ったところ、彼はその高校の教師とも特別なつながりを持っていた人物なのだが、その彼から喜びの声ともう一つ、私の知らなかった事実が知らされた。それは私の入学は必ずしも教師一同の賛意の内に実現したものではなかったということであった。
もう65年も前の出来事であるからさして驚きの事実ではなかったが、私はどこかにいつも社会知らずの幼稚性があることを再認識したのだった。
と同時に、私は自分の人生においてその節目ごとに拒否と愛とを幾度も経験したことに思い馳せたのだった。
高校入学、大学入学、そして就職、結婚、その時々に必ず障壁が立ちふさがった。しかし、私はそこをくぐり抜けて今こうして人生の終わりに生きている。それは、その大切な時期に決まって私を生かす手が差し伸べられたということである。神の御手がそこにいたどなたかの上に臨んでその働きを助けたに違いないのだ。

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2017年6月 6日 (火)

家事の慰み

昼はラーメン。マルちゃん正麺を簡単鍋で3分ほど茹でて、あらかじめ溶かしてある汁に入れるだけでできる。とは言っても右手が利かなくなっているから、鍋の取っ手を持つのも、丼に入れるのも左である。万一、膝の上にでもこぼしたら大やけど。そこは慎重にやらねばならない。
乾燥具材を入れて彩りを豊かにしたこともあったが、簡単が第一。素面で十分である。

しばらくして、ズボンの裾をまつった。脚を持ち上げる時、いつも裾を掴んで引っ張るので裾がほつれてしまったのだ。
長い針に黒糸を通し、縫っていく。目も荒く、針を刺すところも一定しないので酔っぱらいの足跡のような仕上がりである。でも、これでよい。
午前中は新島襄伝を読み、目が疲れていた。そんな時間が多い生活の中でこうした家事はこの世に生きていることを実感させてくれる一時でもある。

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2017年5月 3日 (水)

言葉の力

友人があるチャプレンのメッセージの載ったカソリック系の病院のパンフレットを送ってくれた。そこには「様々な手」と題して手が日常で、また人の生い立ちの中で様々な働きをしている様子が丹念に書かれていた。差し伸べられた命を抱きしめた手、服を着た手、祈るために使った手、涙を拭う手、夫を抱いた手、おむつを替えたり、洗ったり、しぼったり、乾かしたり、たたんだ手。・・・・自分の親、配偶者を見送り葬った手、自分の顔を手で包みこみ、慰めた手。
 こう書いたあと、筆者は「この手は私がどこへ行ったか、何をしたかのしるしです。・・・私の生涯を表している手です」と段落を締めている。
 そして、その後の段落で「私たち個人個人は置かれたところで手を使って、やさしい社会で生活できるように努めたいものです。手は使うほど、手を培って人々のために仕えやすくなります。手は使うためにあるのです。手を差し伸べて歩みたいものです」とこの文章を終えている。
 私は一人ひとりに与えられているその人の手をこんなに丁寧に見つめた文章を初めてみた気がする。人との関わりを取り持ってくれる手。筆者の言うとおり、神様から与えられている手を人に差し伸べて温かい輪を形作りたいものである。
 私は今日のタイトルを「言葉の力」とした。それはチャプレンのB・D・Sさんの言葉の持つ力に揺り動かされたからである。言葉はまさに力なのだ。

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2017年4月29日 (土)

復活節の祈り

ご在天の父なる神さま。

今朝、こうして兄弟姉妹と共にあなたの家に招かれましたことに心から感謝致します。

神さま、私たちは今、あなたの御子のご復活に感謝する復活節の中を歩んでいます。

主は死んで、葬られた後、復活なされ、悲しみの中にいる弟子たち、逃げ去った弟子の許に御自らそのお体をお示しになられました。

今、私たちのところにもあなたが共におられることを心から信じることができますように。その手の釘の跡や脇腹にある穴を確かめることなく、あなたの臨在を信じる私たちでありますように。

そして、子どもが親を疑うことなく、無心に欲しいものをねだり、手に入れるまで求め続けるように私たちもあなたに信頼し、祈り求める者とならせてください。

今から疋田先生の口を通して活ける言葉をいただきます。

どうぞここにおられない友の上にも同じ恵みがありますように。

全国各地にある教会の平和を求める祈りがあなたの許に届き、あなたの平和が地上にも実現されますように。

この祈りを歴史の主、救いの主、イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン

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2017年4月25日 (火)

条件付けられて

ある刺激が与えられてそれに反応した時、心地よい報酬がもらえると、生物はその刺激に自然と同じ反応を返していくようになる。すなわち条件付けが成立するのだ。
これから紹介する話は実はこんな固い説明が必要な話ではない。
私は肝臓の機能が落ちているので毎食後スティックに入った薬を服用している。もう5年は超えているだろう。スティックを力のなくなった指でなんとか開き、上を向いて飲み込む動作を何年もやっているというわけである。
さて、先日何か飲みたくなった。インスタントコーヒー、緑茶、リンゴジュース、どれもいやだ。ふとコーヒースティックが目についた。よし、今まで飲んだことがないこれにしようと決めた。早速、ハサミを使ってスティックを破った。その時、私の手はその中身をカップに持っていかなかったのだった。なんと驚くことに口へと運んだのだ。条件付けが起こったのである。
慌てて洗面所に走り、吐き出し、何度も口を洗浄したが、洗面台は赤茶けた色を簡単には消してくれなかった。
笑えない出来事の顛末である。

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2017年4月24日 (月)

子どものようになる

聖書のマタイによる福音書18章にはこうある。
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
聖書は前後関係を考えながら読まねばならないから、この箇所にはこの箇所の特有の意味があるだろう。
だからこれから記す解釈は私個人の置かれた場所からのものといっていい。
子どもは欲しいものがあれば親に遠慮なしに要求する。ひと目構わす地べたに座り込んでも欲しいものを賣る店の前を去ろうとはしない。翻って私たちは己の願いをかくまで神さまに祈ることがあろうか。祈りの課題を設けても、祈り終わると、それでよしとはしていないだろうか。
子どもがそうまでして親に訴えるのは親への信頼が強いからだといえる。親は豊かで、願えば叶えられる力の持ち主だと信じているのである。
だから、大人の私たちが熱心に神さまに祈らないのは神さまの心の大きさ、その慈悲、愛の深さを心底信じていないとも考えられる。
聖書を毎朝読み、祈り、礼拝を捧げる信仰生活を送っている私であるが、今朝は「子どものように」というイエスの一言に信じる心のありようを省みる必要を思わされることとなった。

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2017年4月 6日 (木)

机の花

書斎の机の上に花が飾られた。赤い花弁が鮮やかなベコニアであろうか。これは誕生日の祝に駆けつけてくれた三男が持ってきた花の一鉢である。昨夜長男がかごに入った鉢を分けてその一つを書斎に持ってきたのである。お陰でニュートラルな書斎の雰囲気が少し潤ったような気がする。
長男は黙っていろいろと気を遣ってくれている。例えば、勤めに出かける前、それまで4チャンネルだったテレビを1チャンネルに変えていくのだ。その上、字幕の設定まですることさえある。8時から始まるテレビ小説を私が毎日観ていることをしっているし、その中で交わされる会話が聞き取りにくい耳に私が最近なってきたことも分かってのことである。
妻がいなくなって生活の中で行うこまごまとしたことに他人から気遣ってもらう機会が少なくなっている現在、こうした小さな配慮は嬉しいものである。
ついでにもう一つの配慮を挙げてみる。それは私の朝の楽しみの一つである新聞読みへの気遣いである。私は小一時間食事の後で新聞を読むのだが、その新聞は私が居間に行く前にポストから長男夫婦のどちらかが取ってきてテーブルに載せておいてくれる。その時、長男だった場合は折込チラシを抜き取って新聞だけを置いてくれるのである。小さな心遣いであるが私はそれにホッと心が和んでその後の時を過すことが出来るのである。

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